先日タービュランス Iさんから、
「パリダカに出ていた松田さんが亡くなったそうですが、聞いてますか?」
と連絡があった。
菅原爺のダカール報告会などで、お顔は拝見していたが、残念ながらお話はしたことがなかった。
爺の盟友、「チームAPIO」尾上さんのナビとして、ダカールやモンゴルにも毎回参加されていたので、ご存知の方も多いのではないだろうか。
パリダカ日本事務局のS女史からも、松田さんの追悼メールをいただいた。
心筋梗塞で63歳の若さだった。
松田さんの本業はカメラマンで、パリダカカメラマンの山田シューセイさんとご同業。
シューセイさんと初めて会ったのは、「第1回ロシアンラリー」。
オフロードを一度も走ったことなく参加したこのイベントのことは、先日書いた。
98年の10月頃だったか、シューセイさんから
「パリダカの取材に行かない?」
と電話をいただいた。
元々オフにハマったのが「パリダカ写真集」だったのと、シューセイさんが主宰する、グラミスのデザートキャンプで砂丘を走ったり、日本からパリダカに出る人たちと接するうちに、いつか自分も出たいと思っていた矢先だったので、
「行きます!」
と即答した。
11月後半、S師匠と参加した群馬の「闇ラリー」でミスコース。
凍った路面で転倒したバイクの下敷きになり、「右すね」を骨折した。
時刻は夜9時。
ミスコースなので後続は誰も来ないし、深い山の中なのでクルマも通らない。
気温は氷点下であたりは真っ暗。
このままでは凍死すると、なんとかバイクを起こしエンジンをかけようにも、XR400はセルがない....。
ガードレールにバイクを立てかけ「手」でキックしたり、、いろいろ奮闘するもエンジンはかからない。
仕方なくバイクを捨てて歩いて山を降りようと、つえ代わりになる木の棒を探していたところへ、偶然ミスコースしたバイクが通りかかり、助けを呼びに行ってもらうことができた。
それからさらに待つこと1時間、
オフィシャルO君のピックアップに乗せてもらい、ふもとの診療所へ着いたときは、夜11時を回っていた。
ベッドに寝てブーツを引っ張って脱がされるとき、足が伸びるような気がした。
「このまま足がひっこ抜けるんじゃないか!」
という、不思議な感覚は今も忘れられない。
親切にしていただいたドクターにここの場所を聞くと、あの御巣鷹山のすぐ近くだった.......。
S師匠のクルマ(ハイラックス)で自宅まで送ってもらい、翌日から入院。
単純骨折だったので入院するほどではなかったが、パリダカのため早く治さなければと、知り合いの先生に無理を言って入院させてもらった。
そして98年クリスマス。
病院からそのまま成田空港へ。
松葉杖にギプスの私は、シャルル・ドゴール空港に降り立った。
この年はパリダカ20周年記念大会で、ベルサイユ宮殿がスタート地点。
日本なら皇居からスタートみたいなものか。
さすが「冒険者を讃える国フランス」
スケールが違う。
こんなのも飾ってあった。
スタート前の「人検」(メディカルチェック)でも、ひと悶着あった。
松葉杖をついてフランス人の女性ドクターの前に立つと、彼女は私を一瞥して
「その足はどうした?」
と英語で聞いた。
「折れていたがもう治った」
と答えると、
「パリダカに来てケガをする人は大勢いるが、ケガして来たのはお前が初めてだ」
と言う。
「そんな体では危険だから帰れ」
とも。
ここまで来てそれはないだろうと、シューセイさんと必死で食い下がるが、ドクターも一歩も引かない。
そこにオーガナイザーのユベール・オリオールがやって来た。
彼はシューセイさんとも旧知の仲なので事情を話すと、病院でドクターの診断書をもらってこいと言われた。
日本人の女性ドクターがいて、彼女に事情を話し診察してもらうことに。
レントゲンを撮ると、やはりまだ完全には骨がくっついていない。
それでも行きたいと懇願すると、
「あとはあなたの責任だからね」
と言って
「パリダカに参加しても良い」
という診断書を書いてくれた
(fuyu先生、メルシーボクー)。
急いでタクシーで戻り、ドクターの鼻先に診断書を突き付けた。
すると
「ここには{クルマで参加OK}とは書いてないからダメだ」
と、またもNG.....。
見かねたオリオールが出した案は、
「危険なところは飛行機で移動し、私が許可したところだけクルマに乗っていい」
というものだった。
なにはともあれ、やっとスタート♪、
って本題に入る前にずいぶん長くなってしまった。
2階で娘も泣いているので、続きはまた。
最後にパリダカ事務局Sさんからいただいたメールです。
松田さん、一度飲みたかった......。
チームAPIOのナビとして尾上茂さんと共にダカール・ラリーをはじめ数多くの海外ラリーに出場してきた写真家の松田瑛二さんが去る6月28日に心筋梗塞の為、お亡くなりになりました。
ダカール・ラリーやモンゴルラリー・国内レースなどで、他のチームに対しても手助けをしたという話を数多く耳にする松田さん、スコッチを傾けながら、低く響く美しい声で話す姿が印象的なダンディな方でした。あまりにも突然のことであり、また、どこかのイベントでお会いする様な気がしてなりません。天国への途中でも、写真を取りながら砂漠を走っているに違いないことでしょう。
パリダカ日本事務局およびASO一同、残されたご遺族の皆様に謹んでおくやみを申し上げますと共に、心より御冥福をお祈り申し上げます。
パリダカ日本事務局
only the good die young
ご冥福をお祈りいたします。