R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

生還

ロッコのナドールから、いよいよアフリカステージが始まった。
 
ここで困ったことが起きた。
パリダカは選手やスタッフ合わせて総勢2000名余りが毎日移動するため、物資やスタッフの移動はすべて飛行機.
なのでビバーク地は必然的に飛行場になる。
 
自分のテントから食事や毎日ブリーフィングが行われる大テントまで、滑走路の端から端まで数キロ.....。
滑走路といってもほとんど砂に覆われているため、歩くだけでもひと苦労だがこちらは松葉つえ....。
少し歩いては休み、また歩くを繰り返すので、食事にありつくまで1キロを20分以上かけて歩かなければならない。
 
そのうち松葉つえの先端にある滑り止めの「ゴム」がやぶれて、杖が30センチも砂に埋まってしまい、うまく歩けない......。
 
仕方なくモロッコの町までゴムを買いに行った。
薬局を見つけてゴムのやぶれた松葉つえを見せると、お店の主人が「ちょっと待ってろ」と言って、店の奥に消えた。
しばらくするとラクダの「ひづめ」ほどもある、ゴムを持って出てきた。
日本製の3倍(!)はあるそのゴムを付けると、まるで雪の上を歩く「かんじき」のように、砂の上でもスイスイ歩ける。
さすが砂漠の国では、ゴムも特別製だった。
 
ベルサイユでドクターから、「パリダカに来てケガする人は大勢いるけど、ケガして来たのはお前が初めてだ」と言われたのを思い出し、こんな体で来るんじゃなかったと、ちょっと(かなり)後悔した。
 
ロッコは砂漠というより岩山のルートが続くハイスピードエリア。
エル・ラッシディア→ワルザザット→スマラへと移動していくほど、徐々に砂丘地帯になっていき、ビバークにたどり着くバイクやクルマも、激しいクラッシュで壊れた車両や、ヘリで運ばれてくるけが人が多くなってきた。
 
砂丘は危険なので私は飛行機で移動するようオリオールから告げられ、以来、彼の隣りが私の定位置になった。
彼は私に気を遣っていろいろ話してくれるのだが、パリダカのことをなにも知らない私には、チンプンカンプンなことばかりで、本当に申し訳ないことをした。
 
メオーニのGPSが壊れたその日、 
ビバークでいくら待ってもシューセイ号が帰ってこない。
シューセイさんから紹介され、アフリカでどこに行くにも後ろをくっついていた、「パリダカご意見番」こと報知新聞の中島翁から、「あいつはいつもそうだから心配するな」と言われ、その日は寝ることに。
 
翌日もその翌日も帰ってこない。
そのうち食堂で知らない人から、「日本人プレスで行方不明なのは誰だ」と聞かれ、「シューセイ・ヤマダだ」と答えるとみんな、「あいつなら大丈夫だから心配するな」と言われる(一体どんな取材をしているんだ?)
 
普通はラリーでケガをしたら、何があっても無理やり強制送還されるのが、毎日松葉づえでビバークにいる変な東洋人は、仲間の行方不明事件と相まって、ビバークでいろいろな人に声をかけられるようになった。
 
自分のテントから食堂までの砂の滑走路を、ワークスマシンに乗せてもらったり(これが楽チン♪)、バイキングスタイルの食堂でトレイの持てない私を、ペテランセルやメオーニが代わりに食事を運んでくれたりと、本当に親切にしてもらった。
(特にKTMワークスのライダーたちが優しかった。カリ・ティアイネン、ジョバンニ・サラ、サンクトにも助けてもらった。この有名人たちを「誰一人」知らないので、毎回「親切なガイジンさんだなァ」と思っていた(バチ当たり.....) 
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BMWワークスの整備風景。
毎日「新車状態」にセットアップされていたが、十数年ぶりにパリダカに復帰したこのときは、成績も振るわなかった。
エディ・オリオリ、J・ブルーシー、紅一点アンドレア・メイヤーもいたけど、誰も知らなかった
(このころ私はGSに何の興味もなかった)。
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こちらはプライベートライダーたちの作業スペース。
毎晩夜遅くまで(ときには朝まで)作業が続いていた。
 
徹夜で整備してスタートした選手はほとんど帰ってこず、どんどん選手たちが消えていく.......。
 
正面右手の青シャツが博田君。
今も日本のトップエンデューロライダーの彼だが、素顔はとてもシャイなナイスガイ。
毎日「淡々と」ゴールして、自分で整備して「二人分の」食事をして、静かに就寝。
翌朝また「淡々と」スタートしていき、最後までこのペースを守って完走した。
 
総合20位、クラス2位の成績だったが、これはラリー中エンジンが壊れてタイムロスしたため。
彼のあとに通りかかった「走るコメディアン(?)」柏(秀樹)さんが、持っていたロープで砂漠を100キロ「けん引」してくれて、なんとかビバークにたどり着き、エンジンを開けるとカムチェーンが切れていた。
たまたまこの日、サポートトラックにXR400のエンジンを積んでいたので、交換して事なきを得たが、この遅れがなかったらもっと上位を狙えただけに残念だった。
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「柏さんのおかげで助かった~」と握手。手前はいわきからメカで参加のSさん。
翌年には彼もXRで参戦した。
この無理がたたったのか、柏さんはこのあとマシントラブルでリタイアしてしまった....。
 
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篠塚さんも若い。
熾烈なトップ争いを繰り広げている彼は、毎日ビバークでメカたちと真剣に話し合いをしていた。
 
このときは菅原爺も参戦していたが、まだ面識はなかった。
中島さんに連れられてチームスガワラのピットにもよくお邪魔したが、ここは毎日ピリピリしていて、居心地が悪かったなァ
 
シューセイさんが行方不明になって4日目くらいになると、この話題を避けるように誰も話しかけてこなくなった。
そんなときモーリタニアだったかマリだったか、カマズのカミオンチームが「山賊」に襲われて、クルマを奪われる事件が起きた。
夜遅くビバークに帰ってきた「チームいすゞ」のクルマには、銃で撃たれた生々しい弾痕のあとがあり、
「峠の先に銃を構えた男たちがいきなり撃ってきたので、あわてて引き返した」
と言っていた。
彼らは肩に「バズーカ」らしきものも担いでいたらしい。
 
モーリタニアやマリは内陸国で、アフリカのなかでも最貧国の部類に入る。
たぶん満足な食料や給料がもらえない「軍関係者」が、アルバイトで山賊をやっているのだろうと、オリオールが話していた。
 
「シューセイさんたちは大丈夫か.....」
不安が頭をよぎりその夜は眠れなかった。
 
行方不明になって7日目の夕食のとき、オリオールが真剣な顔で
「ヤマダに家族はいるのか」
と聞いてきた。
 
奥さんと娘がいると話すと
「プレスカーにもSOS用のビーコンがあるのに、彼からは何の連絡もない。
ルートも大きく外れているようでカミオンバレイでも見つけられない。
捜索するにもラリーが終わってからでないと動けないので、もしものときはお前がヤマダの家族に伝えてくれ」
という話だった。
.........って俺が死亡宣告しろってことか?
その日はかなりブルーになり、「ラリー中の唯一の楽しみ」の食事が、のどを通らなかった。
 
 
真夜中に「ひょっこり」シューセイさんとM君がクルマで帰ってきた。
食事をしながら話を聞くと、砂漠でエンジントラブルになり、部品と修理工場がある町まで140キロを、5日間かけて歩いたらしい。
見ると二人ともげっそり痩せて、人相が変わっている。
オリオールらも駆けつけて無事を喜んだが、毎晩アフリカとヨーロッパ全土に生中継される、パリダカテレビのこの日の主役は選手でなく彼らだった。
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この放送以来、立ち寄る村で買い物をするたびに、「テレビで見たぞ」 と言われていた。
 
撮影が終わったとたん、シューセイさんらは食料のランチパックと水をたくさん持って、真っ暗な道をまた走り出していった。
行方不明のあいだラリーの写真が撮れなかったので、遅れを取り戻すというが、その体で大丈夫かとまた不安になった。
 
またこんな長文になってしまった。
今回で終わらせようと思ったんだけど.....。
毎日が本当にサプライズの連続で、書きたいことが多すぎる(ってよく覚えてるなァ)。
続きはまた。