R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

ダカールの海岸にて

パリダカでのシューセイさんの取材スタイルは、真夜中に単身ビバークを出発する。
真っ暗な夜の砂漠を先回りして撮影ポイントを探し(何度も通っているので大体のルートはアタマに入っているらしい)、そこで選手がやってくるのをじっと待つ。
モト、オート、カミオンのトップグループを撮影したら、ルートをショートカットして、また次の撮影ポイントに向かうというもの。
昔はカメラを担いでバイクで取材していたが、砂丘でカミオンに「轢かれて」瀕死の重傷(1年入院)、
以来、バイクでの取材は禁止になったという、逸話の持ち主。
 
いつの間にか先回りしている「神出鬼没」ぶりは昔から有名で、「あいつなら必ず戻ってくる」と言われる所以らしい。
何のサポートもなくコースを外れて行動しているので、トラブルは自分でなんとかしなければならない。
ラリーカーに比べてノーマルのプレスカーは、夜中に出ないとトップグループに追いつかれてしまう。
 
シューセイさんが数年前、トヨタワークスからドライバーとしてランクルダカールを走ったとき、「毎日明るいうちにキャンプに帰れて、美味しいものたくさん食べられるし、寝袋で寝られて最高」と言っていた。 
シートもバケットよりノーマルのほうが座り心地がいいらしいし、砂丘はオートマでも問題ないらしい。
それでもちゃんと完走するスキルの高さは、カメラマンにしておくのはもったいない。
 
今回行方不明になったシューセイ号には、衛星経由でSOSを知らせるビーコンが付いていた。
それで助けを呼べば、砂漠を5日も歩く必要はなかったし、一週間も行方不明にならずに済んだはず。
 
それに対するシューセイさんの答えは明快だった。
「ラリー中の救助はプレスより選手が優先されるもの。
あのときクルマは壊れたが誰もケガはしていないし、部品の調達できる町までのルートも分かっている。
なので救助を呼ぶ必要はなかった」。
 
前回のブログへのコメントで、パリダカ事務局のSさんがおっしゃるように、シューセイさんは自分一人で町まで歩けば、3日で戻れると確信していた。
 
なので同行者のM君に一人クルマで待つよう話したが、砂漠のど真ん中で、しかもラリーのルートから外れたところに、一人取り残されることにM君は恐怖を感じ、「一緒に連れて行って」と懇願した。
 
もし私も一緒なら彼も残ったかもしれないが、右も左もわからない初めてのサハラ砂漠に、たった一人置いていかれるとしたら、私も「這ってでも」彼と同じことをしただろう。
 
砂漠のプロとシロートの珍道中は、かなりスリリングだった。
M君は誰かが通ったワダチや足跡をトレースしたがる(町までつながっていると思うので)。
シューセイさんがそれは進む方向が違うと言っても、彼には誰も通っていないルートを行くより安心に思うので、聞き入れない。
仕方なく誰かの足跡を追って数時間歩いたら、また同じ場所に戻ってしまった。
 
どうやら自分たちの足跡をトレースしていたらしい.....。
 
私もファラオラリーでミスコースしたとき、たくさんのワダチを見つけて一生懸命あとを追ったら、ワダチがどんどん少なくなって、最後は消えてしまったことが何度もある(基本「方向オンチ」なので)。
それは昨日のルートの逆走かもしれないし、ひょっとしたら去年のルートだったかもしれない。
ちゃんとタイヤ跡のトレッドを見れば、どちらに進んでいるか分かるはずなのだが、そのときは「ワラにもすがる思い」なので、つい追いかけてもっとひどい状況になる.......。
 
 
町までGPSで直線距離だと90キロ、なのでシューセイさんは2日で町まで歩き、部品を積んだ車で戻って修理すれば、3日でラリーに復帰できると考えていたが、M君が足にマメを作らないよう、1時間ごとに靴を脱がせて足を乾かしたり、熱い昼間は日陰を探して休み、日暮れから砂丘を迂回して歩いていたら、5日で140キロもかかってしまった。
 
M君が持っていたハンディカメラには、「もう水がこれだけしかありません」と、か細い声で話すM君と、ペットボトルにわずかに残った水が映っていた。
 
町までのルートに「砂漠の民」、トゥアレグ族がいることを知っていたシューセイさんは、羊飼いの少年を見つけて声をかけた。
驚いた少年は彼らを山賊だと思い、逃げて行ってしまう。
シューセイさんはとっさに、知っているコーランの一節を叫んで少年を安心させ、彼らのテントで休ませてもらった。
 
のどの渇きが限界だったM君は、シューセイさんの制止も聞かず、ドラム缶に残っていた黒く濁った水を飲んでしまった(一応大丈夫だったらしいが)。
 
そして町にたどり着き、修理工場を見つけ、その晩はその主人一家に大変なもてなしをされたそうだ。
 
翌日修理のトラックでクルマまで戻り、修理してビバークに戻ったのが、7日目の夜だった。
 
 
私は彼らがいないあいだキャンプで一人待っていて、現地人ドクターや病院関係者に、ずいぶん親切にしてもらった。
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彼らの家に招待され食事もよくごちそうになったが、スープのなかの肉に鳥のような小骨がたくさん入っていた。
彼らにこれは何だと聞くと(と言っても彼らはフランス語しかできず、英語は通じないので身振り手振りだが)、頭に両手をあてて「耳」のような仕草をした。
「.......?........!」、それが「大ネズミのスープ」だと分かったときは一瞬、頭が真っ白になった(でも美味かったが)。
 
彼らに「もうビバーク戻らないと」と告げると、「泊っていけ」という。
「時間がない」と言うと、「時間は無くならないぞ」と言われた.......。
 
明日はまた同じビバークに戻ってくる、「ループコース」の日なので泊まってもよかったが、ひょっとして「歓迎の証し」に彼らの奥さんや娘を差し出されても困るので固辞し、なんとかビバークに戻ってこれた(本当にあった話しらしい)。
 
ようやくオリオールから同行の許可が出たが、取材できなかった遅れを取り戻そうと、シューセイさんはほとんど寝ないで真っ暗な道を運転している。
M君は衰弱し切っていて、ほとんど後部座席で寝ているので(というかグッタリ)、私がナビ役でコマ図を読んでいたが、さすがにみんな眠くて、シューセイさんも居眠りでクルマが蛇行していた。
 
さすがに危険なので路肩にクルマを停めて、「あの対向車がすれ違うまで寝よう(?!)」と、ほんの一瞬だけ「熟睡」する。
クルマが通り過ぎたらまた運転開始。
 
このとき私は砂漠を横切るペンギンの親子の幻覚を見た。
 
ゴールまであとわずかのラリー後半は、一度もビバークで寝たことはなく、ゴールのダカールまで、3日で合計1時間くらいしか寝ていなかった。
 
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ダカールの海岸にて。ビクトリーランが始まる前に記念撮影。
シューセイさんとM君のやつれぶりが、スタート前と比べてお分かり頂けるだろうか。
 
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二人とも体重が20キロ以上落ちていた。
「人間は極端に痩せるとお尻が無くなる」というのを、ジーンズがストンとずり落ちてしまう二人を見て、実感した。
 
ゴールの「ラック・ロゼ」は本当に赤い湖だった。
空にはフラミンゴの群れが飛び、アフリカ特有の「バオバブの木」が茂っていて、砂と土しかない内陸部から、奴隷貿易で栄えたダカールの海と緑が目に染みた。
 
「砂漠の掃除人」、カミオンバレイ。
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ドライバーの屈強なフランスおやじにも、ずいぶん親切にしてもらった・
 
ゴールしてホテルに向かうダカール市内で。
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レイコさんも完走できてうれしそう。
 
やっと休めるとホテルに着くと、オーバーブッキングで部屋が満室。
他のチームも部屋が取れないようで、ホテルのフロントは大勢の客でごった返していた。
何度交渉してもらちが明かず、途方に暮れていたら、パリダカ日本事務局のS女史が現れた。
彼女が流ちょうなフランス語でフロントに掛け合うと、なんと部屋が取れた(!!)
この人はすごい!
 
数日前ビバークで、主催者ASOのスタッフたちと、最後の酒盛りをしたときに(毎晩彼らから「ご相伴」に呼ばれていた)、アブサンで酔っぱらって滑走路に寝てしまい、風邪をひいたのが、ホテルの部屋に入ったとたん、ぶり返した。
そのまま高熱と下痢とめまいで動けず、ドクターからもらった座薬が手放せなくない。
数時間で座薬が切れると、体中震えが止まらない「禁断症状」。
震える手で座薬を「入れ」ると、数分で天にも昇るような快感が全身を駆け巡る(外国のクスリは本当に効く)。
 
私はこれを「座薬中毒」と呼んでいた。
 
シューセイさんから「ダカールに来たら必ず食べに行く、カルボナーラの店に行こう」と誘われ、ボロボロのM君と3人で行くことに(ってなんでカルボナーラ?)。
 
「この人はダカールでタクシーの運ちゃんでもしてたんじゃないか?」と思うくらい、裏道を走りまくり到着した店は、観光地とはほど遠いローカルな店で、お客はなぜか女子高生みたいな子がやたら多く、たぶん生まれて初めて東洋人を見たんじゃないかというくらい、奇異な目でこちらを見ていた。
 
たしかにカルボナーラは絶品だった。
デザートで食べた「特盛りチョコレートパフェ」もトレビアンなお味。
 
本来なら1カ月でギプスを外すところ、2カ月近くそのままだったので、足が硬化してしまい、以来、正座が苦手になってしまったが、退院して空港に向かう際、慣れない松葉つえで駅の階段を難儀したのがウソのように、帰国後は2段飛ばしで登れるくらい、筋力が付いていた。
 
砂漠に松葉杖は筋力トレーニングにもってこい。
そしてどうしてもダイエット出来ない人には、砂が入るので窓も開けられず、エアコンも効かないクルマで砂漠を走れば、効果テキメンだと教えたい。
 
1月末に帰国してしばらくは、世間から完全に忘れ去られていたようで、事務所の電話が全く鳴らない日々が続き、ようやく社会復帰できたのは3月も後半だった,,,,,,。
 
 
正直言って観光気分で出かけたパリダカだったが、極限のサバイバルレースだった。
一週間で終わってしまう他のラリーは、私のようにマグレで完走もできるが、3週間のパリダカにはマグレは通用しない。
もうあんな無茶はできないけど、本当に「非日常の」刺激的な毎日だった。
 
最後に前人未到のV6を達成したペテランセルの写真を、添付し忘れたので追加。
イメージ 6
ラリー中の写真が撮れなかったシューセイさんが、旧知のペテにお願いして、ビクトリーランの前に撮影したもの。
(本当はウィリーしてもらうはずだったけど......)
 
でもゴールしたばかりのチャンピオンにこんなことさせられるなんて、
シューセイさんてやっぱりすごい。