これが300円の朝食とは思えない、豪華ブレックファスト
昨日は3.11関連のボランティアや関係者で満室だったらしいが、今日はわれわれ含めて3組だけでとても静か(娘だけが一人うるさい(^-^;)。
今日もまた「行き当たりばったり」の旅になる予定。
いつどこでお昼が食べられるかわからないので、しっかり食べなければ...
今日の目的地は「石巻市立大川小学校」
全校生徒108人のうち70人が亡くなり、4人がいまだ行方不明
先生も11人中10人が亡くなっている。
ホテルのオーナーに大川小学校に行くことを話すと
「う~ん、べつに見なくてもいいんじゃないかな~」
と気のない返事。
「だったら松島とか金華山とか、観光したほうが楽しいんじゃない?」
とも。
テレビのインタビューでは
「一人でも多くの人に被災地を見てほしい」
と地元の人が言っているのに、なにか違和感が。
とりあえず出発
川沿いは災害復旧の旗をつけた大型ダンプが、ひっきりなしに行き交い、延々と護岸工事が続いている。
北上川の川幅が思っていたより広いことに驚いた
そしてカーナビが目的地に近づくにつれ、ザワザワといやな胸騒ぎが止まらない
そして「それ」は突然現れた。
あまりに目立たないので、ナビが無かったら通り過ぎてしまったかも。
文字通り「廃墟」。
窓ガラスはすべて無くなって、サッシの枠も曲がっている
津波の前はきっと鉄筋コンクリートの、モダンな建物だったんだろう
3.11の翌日ながら、たくさんの人が献花に訪れていた
鉄筋の柱が根元からへし折られていて、いやでも津波のすごさを感じさせる。
ここが「なんでここに逃げなかった?」と、議論になっている裏山、
山の上から見下ろす
河口から5キロというが、土手の向こうはすぐ北上川
石巻ははるか昔から津波が来なかったので、このときも校庭にいれば大丈夫と、だれもが思ったらしい。
あとでこの「事故」の記事や記録を読むと、さきに裏山に逃げた上級生が、校庭にいる先生に呼び戻されたとか、送迎バスに乗っていればここで津波被害には遭わなかったのでは?など、議論は尽きない。
部外者の私が口をはさむことではないが、「地震があったらとにかく高台に逃げろ」だけは、ぜったい忘れない。
橋のたもとにも慰霊碑が建てられていた。
建物を震災遺構で残すのか撤去するのかわからないが、全国の子供たちに修学旅行で見てほしい。
津波を体験していなくても、津波のすごさは伝わってくるし、「とにかく高台へ逃げる」というのも必ず伝わるはず。
ホテルのオーナーから
「雄勝(おがつ)の10m堤防は見たほうがいい」
と言われたので、大川小からひと山超えて雄勝町へ向かってみた
ここもすさまじい津波に襲われていた。
ニュースで見たビルの屋上にバスが載っていたのは、ここだったのか。
高さ10mの巨大な堤防
福島からずっと見てきた光景なので、もう目が慣れてしまった
雄勝は石巻から30km、山道を走らなければならないので、昔から「陸の孤島」と呼ばれていたそう。
なので震災直後は道路が寸断、完全に孤立して安否確認もできなかったらしい。
そして女川へ
「ここが本当に津波被害に遭ったのか?」
と思うほど駅も町もきれいで、さっきまでいた雄勝とのギャップに戸惑う。
まるでどこかのショッピングモールのよう。
駅の休憩所には3月14日付、石巻日日新聞の手書き号外が貼られていた。
ここもやっ津波で町が消滅していた
震災遺構として遺されている、津波で横倒しになった交番
今ある地盤より数メートル下にあり、膨大な量の盛り土がされている。
近くにいた高齢女性に聞いてみると、
「田舎暮らしにあこがれて25年前、夫婦で東京の日野市から女川に家を買って、引っ越してきたんです」
って。
20年前にご主人が亡くなってひとり暮らしをしていたとき、震災に遭遇した。
たまたま職場が高台だったので命は助かったが、自宅は全壊してしまったそう。
市街地から30mの高台でも津波に呑み込まれて、一段下に住んでいた一家は、全員が今も行方不明とのこと。
東京の息子さん一家から、一緒に住もうと言われているらしいが
「お父さんがここを気に入って、お墓も建てちゃったから、私だけ帰れない」
って、今も被災者住宅にひとりで暮らしているそう。
家にいると運動不足になるので、毎日、町を一周するのが日課とか。
こっちでできた知り合いがたくさんいるので、
「めげずに楽しくやってます」
って。
男性は高齢になるほど友達や外出する機会が減って、孤独になっていくものだが、やっぱり女性のほうが強いのかもしれない。
高台にあった女性の家は20m以上の津波で全壊したそう。
「一段下」の家の住んでいた家族は、今も全員が行方不明らしい。
カメラを向けるとかならずピースサインをする娘だが、すっかりおとなしくなってしまった。
それでもおなかは減るらしい。
海鮮丼は食べられないが、ワカメは大好物なので、ワカメうどんをいただく。
こちらが新しい女川交番
このまま岩手の陸前高田まで行く予定だったが、海沿いは延々と更地が広がり、護岸工事のトラックや重機だらけ
どこも景色は同じで、娘も
「もういいよ」
って。
子供に震災の怖さを教えて、今の自分がどれだけ恵まれているのか、わかってもらおうなんて思っていたが、それは私のエゴだった。
ホテルのオーナーも町の人も、いまさら震災のつらい記憶は、思い出したくないだろう。
なので被災地巡りはこれで終わり。
松島観光をして同じホテルにもう一泊して、明日東京に帰ることにした。
ネットで検索すると島めぐりの遊覧船は、午後4時が最終だが、時刻は2時半。
女川から曲がりくねったリアス式海岸線を飛ばし、高速で松島を目指す。
なんとか3時50分、遊覧船乗り場に着いたが、係のおじさんがでてきて
「冬場は日が暮れるのが早いので、3時で終わりなんだよ」
って(*_*)
ここまで来てそれはないだろう。ということでクルマで展望台を目指す。
お恥ずかしい話だが、日本三景の松島って「ひとつの島」だと思っていたが、松島湾内のたくさんの島の総称を「松島」というのを、このときはじめて知った。
展望台で湾を見ていると、マルチーズを連れた私と同年代のご夫婦が登ってきた。
仙台からドライブで来たそうで、へんな父娘がマスクもせず大声で騒いでいるのを見て(見かねて?)
「東京はマスクが買えないそうですね。あまっているので差し上げます」
って。
お二人ともひどい花粉症で去年大量買いしていたのが、まだ500枚あるそう。
われわれ親子は花粉症でもないし大丈夫ですと断ったが、
「せっかくだから持って行ってください」
と、ついでに
「トイレットペーパーも買えないんでしょ」
って、12ロールひと袋もいただいてしまった(なんていい人だ~)。
ホテルに電話してもう一泊する旨を告げ、近所の温泉施設を紹介してもらった。
石巻 元気の湯
コロナの影響なのかガラガラ
娘は昨日のミスティにまた行きたいと言っていたが、
「鶏のから揚げ食べたいから、ここでいい」
って。
ホテルの廊下にはそこら中に石ノ森マンガの原画が飾ってある
なぜか「ちばてつや」も
関連本もたくさん
仮面ライダーは1号2号、V3くらいまでは毎週欠かさず見ていたが、それ以降はどうなったのか知らないが、いまだに続いているらしい。
そして翌朝も300円の朝食をいただき、オーナーにお別れ。
私とたぶん同年代のオーナーだが、
「津波は初めての経験だった」
そうで、「ヒザくらいの津波なら大丈夫」と思っていたが、津波は大きなゴミや木材が大量に流れてくるので、たとえヒザの高さでも歩けないことを思い知ったという。
そして帰りがけ、閉館中の石ノ森漫画館の前で記念撮影
車を停めようと思ったら、星一徹に叱られた(「巨人の星」は川崎のぼるでは?)
ふだんは大混雑するんだろうナ
イナズマンと同じポーズで
さて東京に帰ろうと石巻のメインストリートを走っていると
「白松ガもなか」の看板が目に入ったので、お土産に買っていくことに
ここも腰の高さまで津波に襲われたそう。
震災前はここがメインの商店街だったが、津波で営業を断念したお店が多く、空き地も目立つ。
最近は「水」が来なかった、すこし離れたイオンのほうが中心地になりつつあるとか。
不動産屋の店頭広告でも、水が来たか来ないかで家賃相場が大きく変わるんだろう。
帰りは東北道を450km、いっきに南下
今回、東北に来たかったもう一つの理由が、社会科の授業
「〇〇県の名産は?」
とか
「宮城県の港は?」、「川の名前は?」、「山脈の名前は?」などなど、
行ったこともない地名を丸暗記させるものばかりで、違和感があった。
自分の目と足で現地に行けば、「リアス式海岸」とか「松島」「北上川」「女川」「石巻」など、もう忘れないはず。
帰りの高速でも
「あの遠くに見える山は?」
とか
「安達太良って何て読む?」
「あんたつたろう!」(「あだたら」ね)
なんてクイズを出しながら走れば、退屈しないで済む。
安達太良SAの自販機に、なぜウルトラセブンが?
あとで知ったが福島県須賀川市は、円谷プロの円谷英二氏の出身地だった。
このあと帰りの車中はi-padのyoutubeで、「ウルトラセブン」を見まくっていた。
10時に石巻を出発、100kmごとに休憩しながら渋滞もなく、4時前に帰宅できた。
首都高で東京タワーが見えると、「帰ってきた~」とホッとする(撮影は娘です)
お土産のはずの白松ガもなかを食べ(大納言が好き)
次回は岩手まで足を延ばしたいけど、そのときは「100%」観光で行きたいと思います。