カフェしなの

TREK SUPER CALIBER改とたまに1250 GS HP

スイートメモリーズ

朝から携帯が通じない。
どうやらドコモのシステムトラブルらしい。
 
私が産まれた家は父が勤めていた工場の長屋で、押入れからとなりの家に行けたり、晩ご飯の時間になると近所の子供がなぜか一緒にごはんを食べていたり、まるで落語に出てくるような○○長屋だった。
当然電話はなく、用があるときは大家さんの家の電話を借りていた(滅多にかかったことはないが)。
テレビはあったが白黒で、映るのはNHKと教育と民放が1局だけ。
子供の服は「つぎはぎ」が当り前で、みんなあおっぱなを垂らしていた。
 
本当に「三丁目の夕日」みたいな時代だったが、毎日が楽しくてしかたなかった。
 
その後、今の実家のある場所に引っ越したが、それでも中学生ころまで家に電話はなく、用があるときはとなりの家の電話を借りたが、それも年に数回だけ。
まわり家も電話がないのが当たり前だったので、初めて家に電話が入ってもしばらくはどこからもかかってこなかった。
 
電話が当たり前な時代になり、バブルのころは大きな弁当箱のような携帯や、「コンバット」にでてくるような肩掛け式の大型電話を持ち、だんだんと携帯が生活の比重の多くを占めるようになっていった。
 
今は小学生でも携帯を持っているし、テルちゃんの娘のように幼稚園児でもアイパッドを器用に使いこなし、ある時期からデジタルについていけなくなった、アナログおじさんはタジタジである。
 
ファラオで砂丘に埋まり暑いなか、一生懸命砂を掘っているときでも、普通に日本から電話がかかってきて、便利になった反面、文明の進化を怖いと感じた。
 
今は事務所の電話より、ほとんどが携帯にかけてくるので、今日は本当に静かである
(あとで大変かもしれないが、携帯に頼りすぎない「いましめ」として、たまにはこんな日があってもいいのかも)
 
 
今日中にやらなければいけない仕事があるが、どうにも気が乗らないので事務所の片づけをしていたら、こんなものが出てきた。
イメージ 1
 
昔行ったラリーのコマ図
地図は右がモンゴル。左はパリダカの際、携行が義務付けられているもの(今は南米のものか)
 
TBIや国内ラリーのものは捨ててしまったし、ファラオやモンゴルのものもほとんどが無くなって、残っていたのはこれだけ。
 
イメージ 5
 
(オールソンに会いたいなァ)
54.4km地点にあるモトクロスコースでスペシャルテストをして、次に向かう。
スウェーデン語はわからなくても、コマ図があれば世界中どこに行っても迷うことはない(ってやっぱり迷うけど....)。
 
 
イメージ 2

ファラオの3日目、一日中サハラ砂漠を走る「シーワ~シーワ」のループコース
 
朝キャンプをスタートしてからたった15.78kmで、「!!!」とどくろマークの表示が。
たしかストンと10mくらい垂直に落ちる砂丘だった。
砂丘の下にバイクだけ倒れていてライダーはいなかったが、後で聞いたら砂丘をダイブして、背骨を折ってヘリで運ばれたらしい(よく死ななかったものだ)
 
でもこのシーワが一番楽しかった。
どこまで行ってもひたすら砂丘で、てっぺんがとがった砂丘さえ気をつければ、ずっとジェットコースター状態。
デプレやコマらトップライダーに比べれば半分以下のスピードでも、ただの観光ツアーではこれだけ奥地には来れないし、この景色は絶対に拝めないだろう。
 
イメージ 3
こちらは2002年のモンゴル
 
553.21kmが運命の分かれ道だった。
デューンのすそを西へ」と書いてあるのに、GPSの矢印が↑を指すので、そのまま直進してしまった。

「砂にいろ」の意味は右側が大昔「湖」で、今も湿地帯になっていて、左側の砂丘を嫌がって右側を走ると、泥沼にハマって抜けられなくなるからだが、ミスコースして大砂丘群に迷い込んだ私は、文字通り砂のなかで一晩を過ごす羽目になった。
 
イメージ 4
最終日、ウランバートルのチンギスハーンホテルにゴール。
 
コマ図の最後にはオーガナイザー山田さんの手書きメッセージが書かれていた。
 
無事生還できたことを神様ご先祖様、お世話になった人たちに感謝したが、そこで懲りればいいものを、まわりの悪い大人たちにそそのかされ、さらに泥沼にハマることに。

でも日本でフツーに生きていたら絶対できない経験を、たくさんさせてもらったことは本当に感謝している。

日々成長している娘の子育てに、無上の喜びを感じている今日このごろだが、いつか家族から相手にされなくなったときには、またこっちの世界に戻れるだけの体力と気力は失わずにいたい。、