R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

福島の今

日曜日お台場にいたらS師匠からメールが。
「天気もいいのでバイクでいわきに行きませんか」って。
 
となりにいた妻にメールを見せたら、「Sさんによろしくね」って(デキタヨメデアル)。
 
オフを走っていたころは、毎年秋開催の「いわきツーリング」に参加するのが、恒例行事だった。
ツーリングとは名ばかりで、ゲロありケモノ道ありの、コマ図を使ったかなりハードな設定。
いつのころからかツーリングには参加せず、S師匠とクルマで出かけて、夜の宴会&温泉だけ参加組になっていた。
 
このツーリングの主催者が大和モーター商会内のバイククラブ「チーム大和」。
田舎のクラブと思ったら大間違い。
パリダカ含め海外ラリー参戦歴は古く、メンバーもみんな歳はとったが、タンクの赤が経年劣化でピンクになり、「それホントにXR?」ってボロボロのバイクながら、KTMなんかよりよほど速くお山を走る、ツワモノ揃いである。
 
祝日で休みかも?とお店に電話すると奥さんが出られて
「今日は東京から来たお客さんを、山に連れて行ってます」とのこと。
 
「なので明日はたぶん{筋肉痛で}お店にいます」ってw
 
まだバイクで山を走っているのはすごいが、去年も「カラダが痛い」って言ってたから、ちょっと心配になる。
 
翌14日(月)は体育の日の振り替え休日
朝7時に首都高の加平SAで待ち合わせ。
 
むかし毎週のように東北のお山に通ったころは、いつもここが集合場所だった。
あのころは一日で何本林道を走れるかを目指していたので、朝5時集合とかもザラだったような
(ツワモノ揃いのメンバーの中いつも私がトラぶって、その日の予定を消化しきれなかった)。
 
自宅から30分もあれば余裕だが、5時に起きて準備して食事していたら、娘が目を覚ましてしまった。
「パパどこいくの?」
「Sさんとおでかけだよ」
「あたちもいく~」っていつもの駄々こねが始まる。
妻になだめられてしぶしぶ、「Sさんによろちくね」って。
毎度のことながら愛おしくて、娘とイチャイチャしていたら、6時40分(!)
慌てて出発した。
 
昨日と違い空気も冷たく、すっかり秋。
念のため革のグローブとフリース、ユニクロのなんちゃってマウンテンパーカーと、これもユニクロの防風ジーンズを着ているが、東京がこれでちょうどいいってことは、福島はもっと寒いかも.....。
 
気持ちは急ぐけど無理な追い越しやすり抜けはせず、ちょっと遅れて7時10分に到着、
すでにS師匠は着いていた。
 
次は中間の友部SAで休憩することにして、出発。
連休最後の休日なので渋滞すかと思ったが、S師匠いわく「{行き止まり}なんだから、混まないよ」って。
たしかに常磐道は広野で災害通行止めになっていて、交通量も少ない。
 
ひさびさにツーリングするGSはすこぶる調子がよく、S師匠のHP2にもしっかりついていける
(アクセルいっきに開けられると置いてかれるけど......)
 
去年はクルマで行ったがやっぱりバイクもいい。
おととしのいわき以来になる、S師匠の後ろ姿を追いかけながら、思った。
 
いわきまで200キロちょっと。
普通に走っても10時前には着いてしまうので、友部SAのスタバでゆっくり休憩。
ここまではSAもわりと混んでいて、バイクも多い。
 
日立を過ぎるとクルマも少なくなり、秋晴れのなか快適なツーリングが続く。
 
目指す四つ倉ICの手前、四つ倉PAでもう一度休憩。
イメージ 1
いつのまにか「ハコラー」のHP2
われわれのほかは観光客のおばちゃんが数人いるだけの、のどかでなにもないPA
 
カラダが冷えたのであたたかいコーヒーを飲みたかったが、あいにく自販機はCOLDしかなかった。
 
高速を下りると道の両側に、黄金色の稲穂がキラキラ光っていた。
イメージ 2
この風景
なにも変わっていなくてホッとする。
佐藤社長も「筋肉痛だよ」っていいながらも、お元気そう。
昨日はバイクジャーナリストで別名「走るコメディアン」、柏秀樹さんとライディングスクールの生徒さんらが、2泊3日でいわきの林道に来ていて、社長さんはその案内役。
(柏さんと言えばこっちの方が有名か)
 
いわきのバイク仲間Oさんも駆けつけてくれた。
昨日電話したときは「DOAの手伝いで昭和町にいるので、行けないかもしれません」とのことだったが、わざわざ会いに来てくれた。
 
Y原さん主催のDOA(ドア・オブ・アドベンチャー)も回数を重ね、今年は130人以上が集まったとか。
 
ビギナーも多いようだが、大きなトラブルもなく無事終わったらしい。
 
Oさんから「原発の近くまで行ってみますか」と誘われ、行ってみることに。
イメージ 13
佐藤社長さん(右)とOさん
 
社長さんに別れを告げ、今日はクルマ(ホンダフリード)のOさんのあとを、S師匠と付いて行く。
って国道をいきなり80km/hオーバーで走りだすOさん。
とりあえず地元のクルマならネズミ取りも大丈夫なんだろうと、2台で追いかける。
 
国道を外れ山のワインディングを突っ走るフリード。
直線では100km/h超で前走車を追い越すので、追走するこちらも引き離されないよう必死。
「福島は速度無制限の無法地帯か」と思ったが、どうやらOさんだけのようだ。
 
テレビや新聞でよく目にする「楢葉町」、「双葉町」などの道路標識が、頻繁に目に飛び込んできて、原発に近づいていることを実感する。
 
民家がありクルマも止まっているので、誰かいるのかもしれないが、道路に人影はない。
荒れた畑はセイタカアワダチソウの黄色に覆われ、言いようのない不安感が胸を締め付けて苦しくなる。
 
と、市道をそれて狭い山道を駆け登っていくフリード。
まさかダートになるのでは?との心配は的中し、3年ぶりのダート走行にかなりビビっていたら、フリードが視界から消えた。
そのまま林道を登って行くと、少し開けたところにOさんが立っていた。
彼の指さす方向を見ると
イメージ 15
福島第一原発が肉眼ではっきり見える。
ここから約7キロ。
原発事故が起きて以来、小さい子供のいるOさんは放射能に敏感になった。
ガイガーカウンターを買い、バイクで福島各地を走っては濃度を調べたり、自分の目で確かめようと原発が少しでも近く見える場所を、探し回ったそうだ。
 
高校の先生でもあるOさん
今後の地震の可能性をいろいろ調べたら、まだまだ3.11と同規模かそれ以上の地震が来る可能性があるとか。
Oさんのいわきの自宅も数十m前まで津波が来たこともあり、最近、いわきから100キロ離れた只見のほうに、「エスケープハウス」も購入したそうだ。
「次なにかあったら、ここを離れます」
代々住み慣れた土地を離れるのは、大きな決断だったろう。
 
佐藤社長さんも「次に地震が来ても、国はなにもやってくれないのがよく分かったから、俺たち年寄りはここに残る」って。
 
ここは富岡町
1キロ先は道路封鎖されていて、一般人は入ることができない、ギリギリのところ。
手前に見える町は帰宅困難地域で、ゴーストタウンになっている。
 
イメージ 16
帰り道、道路のあちこちに大きな黒い袋が置かれていて、「除染された土」とすぐ気付く。
行きかうトラックや乗用車には、ヘルメットをかぶった作業の人ばかりで、住民の姿はどこにもない。
イメージ 17
いたるところで除染作業中
 
イメージ 18
しばらく走ると今まで見た何倍もの除染土が、整然と置かれていた。
 
イメージ 19
 
イメージ 20
見渡す限り黒い袋が積まれていて、かなり不気味な光景。
この袋の耐用年数は5年とかで、それまでにどこか最終処分場へ移動するらしい。
 
ここから国道までのあいだに、さらにたくさんの除染土置場を見た。
 
黒い袋が遺体の山に見えて、フランクルの「夜と霧」に描かれた、アウシュビッツ強制収容所か、昔見た映画「カサンドラクロス」を連想させる。
 
「除染は必要なの?」とOさんに尋ねると、
「年寄りは住み慣れた場所を離れたくないから、やってくれと言う。
若い人はもう住めないのだから県か国に土地を買い取ってもらい、他へ移住したいんです」。
 
ここで300キロ、リザーブになった。
この辺りは国道でも人が住んでいないので、スタンドもやっていないらしい。
なのでガス欠になる前に町に出ようと、国道6号を南下する。
 
本当に国道沿いのあらゆるお店が、閉まったまま。
クルマは走っているが歩いている人は誰もいない。
 
やっと営業しているスタンドを見つけ、S師匠と給油。
店員のおじさんが「富岡駅は見たのか」と聞くので、Oさんに尋ねると、
原発に近い居住困難地区なので、津波のあとそのままになっている」とのことで、Uターンして見に行くことに。
 
国道から富岡駅入り口の信号を右折すると、半壊した建物が目に飛び込んでくる。
たぶん商店街だったのか、駅まで続く道沿いには津波地震にやられたままの姿が、無残に残っていた。
イメージ 21
駅前
駅舎の上まで津波が来たそうで、電柱は折れたまま放置されていた。
 
このおばさんたちは朝の四つ倉SAで会っている。
茨城から被災地を見に来た人たちらしい。
 
イメージ 3
駅前に放置されたクルマは3年前の3.11のまま
ここはすべての時間が、あのときのまま止まっている。
イメージ 4
ホームの向こうに海が見える。
震災前はホームから砂浜越しに海が見えたのかと思ったら、
「駅と海のあいだには住宅街がありました」と、Oさんがポツリ。
イメージ 6
ここにもたくさんの人が住んでいたことを思うと、本当に胸が苦しくなる。
 
イメージ 7
雑草の下には線路が残っている。
津波地震だけならとっくに復旧しているが、原発が近いので手を付けられない。
 
イメージ 8
S師匠がデジタル加工して撮影した写真。
ただでさえ淋しい風景が、アワダチソウの黄色でさらに淋しく見える(右にいるのは私)。
イメージ 9
駅前も壊れたまま無人の町
 
イメージ 10
津波で土台をさらわれて倒壊したアパート。まだ新しい
建物の壁に津波の水位のあとが。
 
イメージ 11
「人」と書かれた家
震災直後に捜索に入った自衛隊や警察が、建物のなかで遺体を発見すると、目印にペイントするらしい。
この家は平屋かと思ったら2階部分だった。
それも道路の真ん中にあり、たぶんどこかから流されてきたのだろう。
イメージ 12
放置されたクルマにも
 
震災後いわきに3度来て、これほどつらい気持ちになったことは無い。
 
「オリンピックやってる場合か」
思わず口から出た言葉。
 
Oさんも「オリンピック?、関係無いですね」って。
 
日本全体の景気高揚にオリンピックは必要だろうが、町を追われた人たちのことを忘れているんじゃないか。
 
できれば小中高の修学旅行でフクシマに来て、子供たちにこの惨状を見て欲しい。
 
でも「放射能が危ない」とか「また地震が来たらどうするのか」と理由を付けて、叶わぬ願いなんだろうナ。
 
たぶん来年来てもここは何も変わっていないだろう。
自分の無力さがいやになる。
 
一日付き合ってくれたOさんに別れを告げ高速に乗る。
昼飯を食べていなかったので、四つ倉SAで遅い昼食
イメージ 14
とんかつ定食
本当は刺身定食を食べたかったが、地元の魚は誰も食べず、築地から直送しているらしい。
 
土産でも買ってもっと地元に還元したかったが、使ったのは缶コーヒー代とこの食事だけ。
朝と同じく友部SAで休憩し、余韻を感じながらゆっくり走った。
連休最終日にもかかわらず、首都高も流れていた。
S師匠と芝公園の先で手を振って別れ、帰宅したのは9時過ぎ。
 
娘はまだ寝ないで私の帰りを待っていてくれた。
ギューっと抱きしめながら今あるシアワセをかみしめる。
 
東京にいるとテレビや新聞以外の情報が入らない。
汚染水ばかり問題になっているが、問題はもっと根深いことを、改めて知る一日だった。
Oさんお付き合いありがとうございました。
佐藤社長さんもまた行くのでお元気で。
ひさびさのS師匠とのランデブーは、昔のことをいろいろ思い出した。
また行きましょう
 
 
イメージ 5