R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

昭和は死なず

20数年前の話し
イラン人のアリが部屋を探しに来た。
彼の仕事はペルシャじゅうたんの輸入販売。
家族をイランに残し単身来日、同胞の家に居候していた。
 
日本人でもむずかしいくらい安い家賃で、「事務所兼倉庫兼自宅」を探していたが、ガイジン、それも日本語の話せない中東やアフリカの人間は、なかなか部屋を借りられない。
 
何軒も不動産屋で門前払いされ、なかには店に入ろうとガラス戸に手をかけたら、中にいる社員から「シッシッ」って手で追い払われ、「オレは犬か?」と思ったとか。
 
私のいた店も他のおじさんはガイジン恐怖症なので、たぶん同じように断られただろう。
お店のおじさんたちも協力してくれて、いろいろ探したが、どこも日本語の話せない外人は×。
そんななか、麻布十番のはずれにある古ビルなら、ナニ人でも家賃さえ払えば貸してくれるという。
さっそく案内するとそこは高速と川に挟まれた、今にも潰れそうなくらいボロボロの古いビル。
まだ麻布十番駅もなかった当時は、完全な陸の孤島
風呂はなくシャワーとトイレだけ、10畳ほどのワンルームだが、そのぶん家賃は格安だった。
 
後年、エジプトやアフリカに行くと、
「ここは空爆でもあったのか?」と思うほど、ボロボロのレンガの建物に、たくさんの人が暮らしていた。
聞くと
「建材が不足して工事がストップしたまま、もう何十年も暮らしている」という。
 
そんな国から来たアリにすれば、どんなにボロボロでも鉄筋コンクリートのビルは、立派な「御殿」に見えたのだろう。
 
そこにアリを世話してから数日後、イラン人の友達を連れてきた。
彼もじゅうたん屋で部屋を探しているという。
 
同じビルの大家さんに聞くと、あと5部屋空いているらしいので、さっそく案内。
 
アリ、タヒール、シャーラム、ナジール、カブール.....
こうしてイラニアンネットワークで5部屋全部、彼らが借りてしまった。
 
昼ごろになるとアリから電話が。
昼飯の誘いだった。
 
部屋に入ると5人のイラン人が、車座に座って食事をしていた。
真ん中にあるのは緑や赤、黄色など、いろとりどりのカレー。
 
彼らに交じって座って食事をする。
フォークはないか聞くと、「手で食べる」という。
左手は「不浄の手」なので、右手だけでカレーをナンですくって食べる。
 
本場のカレーもナンも、このとき初めて食べたが、想像以上に美味く、以来、週3くらいでごちそうになり
「おまえの食べ方はもうイラン人だ」と言われた。
 
イラン人が入居してからこのビルの前を通ると、いつも香辛料の匂いが漂っていた。
毎日決まった時間にコーランが流れ、いつのまにか近所から、「イスラムアパート」と呼ばれていた。
 
それから何人、アラブ人に部屋を紹介しただろう。
黙っていても顔の怖い彼らは、なかなか日本の不動産屋に受け入れられず、部屋を紹介してもらえなかった。
 
テヘランではお前は有名人だぞ」
「イランに来たらオレの家族を紹介する
「オレの妹を嫁にもらわないか」
 
こんなことを言われていたが、ついに行く機会はなかった。
 
 
ある日、赤ん坊を乗せた乳母車を押して、色の浅黒い女性が入ってきた。
どこの国かと思ったら「プエルトリコ」という。
家を探しているが例の白人専門の店で、やんわりと断れらたらしい。
 
予算を聴くと「150万くらい」って。
 
ひゃ、150万って家を買うのか?
 
どうやらひと月の賃料が150万らしい。
当時、世田谷で四畳半風呂なし、共同トイレ、2万円のアパートに住んでいた私にすれば、75倍の家賃を払うということが、想像もできなかった。
 
とりあえずジャパンタイムズで親しくなった、おばあちゃんの大家さんに電話すると、広尾で家賃170万円の貸家が空いたので、案内してごらんと言う。
 
一か月の家賃が170万円って、これもよくわからない世界だが、とりあえず彼女を乗せてクルマで向かった。
 
家は5LDKのかなり広い洋館、小さいがよく手入れされた庭もある。
 
彼女は気に入ったようで、「明日、主人を連れてくる」という。
 
翌日、やはり色の浅黒いご主人を連れてきた。
 
案内すると「ここに決めたい」と言われ、もらった名刺には
クライスラー日本支社長、リノ・ジェイ・ピエドラ」と書かれていた.....
 
エドラさんの契約が終わり、借主だけでなく大家さんからも、「広告代」として家賃1か月分の手数料をもらった。
170万円×2=340万円
 
店の社長に呼ばれて
「そろそろ3か月経つけど、これから給料25万円でやるか、それとも完全歩合でやるか、どっちか決めろ」という。
今月の入金が400万(ピエドラさん以外にも、アリの仲間二人にも部屋を世話した)、歩合50%で手取り200万。
悩むことはなかった。
 
以来、ヤクザチックな会社と、バブルがはじけたあとにいた知人の会社だけ、給料プラス歩合だったが、それ以外ずっとフルコミの人生。
 
自営業なんてまわりから、「社長」とか呼ばれても、吹けば飛ぶような超不安定企業ばかり。
まだ働いたぶんだけカネがもらえる、アルバイトのほうが安定している。
正規雇用が悪いとか、ブラック企業が叩かれているが、要は本人のやる気次第で、いくらでも上にいけるチャンスはあると思うのだが...........。
 
 
 
やっと今回の忘年会
 
のんべえのおやじたちは当然一次会で終わるはずもなく。
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酔っぱらいおやじ5人でセンター街をふらふら歩き
 
道玄坂を上りストリップ劇場を右に曲がり、ラブホ街を千鳥足で歩いていく。
 
「こんなところに店があるのか?」とちょっと心配になったが、
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8人も入れば満員の、おばあちゃんママとおばさんチイママの、場末のスナックにたどり着いた。
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さっそく「網走番外地」と「人生劇場」を歌いだすSさん
 
御年70にしてバツ5のツワモノ。
今は10年前に結婚したフィリピン人の奥さんとのあいだに、9歳と7歳の子供がいて、前妻、前前妻、前前前妻とのあいだには、子供が10人、孫が5人いるという。
(孫と今の子供が同い年というのも、すごい)
 
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トレジャーハンターYさんも、どさくさに紛れてママに抱きつき、
「やらせろ~」って口説いている。
 
こんなぐちゃぐちゃな飲み会は、本当に久しぶりで、しばらくは口あんぐり......。
 
幹事のKさんから
「おまえもなんか歌え」というので、十数年ぶりにカラオケを歌う。
 
「時代遅れ」を歌ったら、意外に上手いのに驚いたKさん
 
「もっと歌え」というので調子に乗って、
「岬めぐり」を歌う。
 
おばあちゃんママから
「いい声だから五木ひろし歌って」
とのリクエストにお応えして、
「千曲川」(長野県人だもんで)
 
それからもママやKさん、Sさんらの希望で、前川清新沼謙治 吉幾三北島三郎などなど、久しぶりに歌ったら楽しくて、止まらなくなってしまった。
 
気が付くと2時
飲みながら歌っていたので、かなり酔っぱらってしまったが、こんな酒もたまにはいい。
みんな自営で何かやっているので、だれも会社や仕事の愚痴を言わないのもいい。
(愚痴をいうくらいイヤなら、さっさと辞めればいい。悩むことではない)
 
ベロベロのKさんと肩を組んで、大声で歌を歌いながら渋谷の自宅まで送り、気持ちがよかったので歩いて帰ろうと思った。
 
明治通りを天現寺まで歩き、日本レーシングの前を通過。
白金トンネルのわき道を過ぎたところで時計を見たら、3時半(!)
明日は6時起きなので、あわててタクシーを拾って帰った。
 
 
今年の忘年会は先日の「うめさんを囲む会」と、このOB会の二つだけだったが(たぶん)、昭和の香りプンプンの飲み会も楽しいものだ。