そして美ら海水族館へ。
北谷から60km、那覇からだと70km以上あり、狭いと思っていた本島だが下道で2時間近くかかった。
借りたときアクセルを踏んでも前に進まないので、
「壊れてるのかな?」
と思ったほどパワーが無い。
水族館への国道でもちょっとした上りになると、かなりアクセルを踏み込む必要があり、
「壊れるんじゃないのか?」
と思うほどエンジンが悲鳴を上げている。
駐車場から公園を歩いて水族館まで約10分。
今回の旅行は雨こそ降られなかったが天気が悪く、海が近いと風が冷たく感じるほど。
ここでも中国語がそこらじゅうから聞こえてくる。
狭い水槽にかなり大きなニシキエビが数匹うごめいていて、かなり強烈、というか派手なカラーリングが気持ち悪い。
ちょっと変わった感性の彼女は「じーっ」と見つめて、なかなかその場を離れなかった.....
しばらく歩いたところに巨大な水槽が現れ、そこらじゅうから歓声が聞こえてくる。
と、水槽を巨大な影が横切った。
金曜日にもかかわらず、水槽の前はたくさんの人 人 人.....
たぶん半分は中国人だろう。
「オレもこれで終わりか....」
と覚悟を決めたほど、とてつもなく大きく感じたが、ここの3頭もでかくて、もう一つの目玉「マンタ」も影が薄れてしまうほど。
娘も初めて見るジンベイザメがよほど印象に残ったのか、
「沖縄、なにが楽しかった?」と聞くと
「ジンベイザメ!」とずっと言っている。
3月なので海には入れなかったが、これだけで沖縄に来た甲斐はあったかも。
でも娘が一番楽しかったのは
このネットを上ったり下りたりするのが楽しくて、ずーっと遊んでいた。
見渡す限りずっとネットが張られているが、大人は禁止で残念。
すでに6時半。
せっかくここまで来たのだから、どこかで食事をしようとガイドブックを開く。
もう少し北に行った「今帰仁(なきじん)」というところにある、長堂屋のアグー豚シャブが食べたいと妻が言うので、ここを予約して向かうことに。
しょせん内地の人間の沖縄に対する認知度は、こんなものか。
それなら人口の少ない今帰仁や、本島の北側に基地を移転できないのかと思ったが、なにかだめな大人の理由があるのだろうか。
万が一、トランプが大統領になって、沖縄から米軍を撤退させたらどうなるのか?
私はブタ焼肉を注文したが、やっぱり焼肉は牛がいい。
ビールを飲んでしまったので、帰りは妻が運転することに。
発車しようとしてアクセルを踏んだが、進まないヴィッツに
「ほんとに走らないね」って。
高速道路で帰ったが、
「アクセル踏みっぱなしで疲れた」とも。
3人とも部屋に戻ってシャワーを浴びたとたん、バタンキューだった。
翌土曜日は島の南側に行ってみることに。
私が一番行きたかった「平和記念公園」に向かう。
沖縄戦で亡くなった人たちの墓碑の多さに圧倒される。
娘に
「ぜんぶせんそうでしんだひとの、おはかなんだよ」
と説明すると、
「こわいからかえろう」って。
6歳児に理解しろと言うほうが無理な話だが、死者12万人のうち沖縄の民間人が9万人以上亡くなったことに、言葉を失う。
墓碑にも「○○3男」とか「××5男」など、家族全員が亡くなり名前のわからない家も多いという。
平和祈念資料館に寄ってみたが、娘は「かえろう」と言って聞かないので、公園入口にある「ひまわりの迷路」へ妻が連れて行き、私だけ見学することに。
床下のガラスには不発弾が展示されていて、覗き込んでいるのはアメリカ人観光客の一行。
ケンタッキーだかアラバマだか、かなり田舎から来たようで、
「オキナワでこんな戦争があったのか」
と知らない人もいた。
アメリカでは学校で教えないらしい。
2階の展示室を回ると沖縄戦の悲惨さが伝わってきて、来場者はみな無言になる。
死体の写真をこれでもかと見せられて、やっと終戦のコーナーまで辿り着いたと思ったら、まだ出口ではなかった。
沖縄が悲惨だったのは、終戦で終わらず「占領」され続けたこと。
出口に近いコーナーは占領中の風景や、県民が暴動を起こした事件が、掲示されていて、また言葉を失う.....。
専門学校の同級生には沖縄出身者が数人いて、
「子供のころはドルだった」とか
「本土に行くのにパスポートが必要だった」
などなど、長野の田舎でのほほんと育った私には、理解できないことばかりだったが、ここにきてますます理解できなくなってしまった。
どちらが本当の沖縄なのか、もちろん戦争は70年前に終わっていて、当時のことを語れる人も少なくなっているそうだが、日本人なら一度は見ておかなければいけない事実を、あまりに知らなかった自分が情けなくなった。
「パパ~ わたしがあんないしてあげるね」
そう言って先に迷路を走って行った娘だが、途中で本当に迷ってしまい照れ笑い。
こんな子供が数えきれないくらい犠牲になった戦争を、2度と繰り返してはならないが、世界中いたるところで内戦や戦争が起きていて、どうすることもできない自分がいる。
平和な日本に生まれたことを、親や神様、仏様、御先祖様に感謝しながら、公園を後にした。
せっかく来たのだから、海が見たいねと、国道を海のほうへ降りていくと
どこだかわからないが、奇岩のたくさんあるビーチに出た。
ここでグラスボートに乗り、沖合でたくさんの魚を見て感激する娘。
次回は泳げるときに連れて来てやりたい。
そして那覇に向かう途中で
「新垣ちんすこう」の工場と直営店を、偶然発見した。
以前、管理するアパートに沖縄の青年が入居した際、沖縄のお母さんからいただいた。
「ちんすこう」は沖縄銘菓らしいが、今までいろいろ食べてみて、この「新垣」が一番おいしい(と思う)
自宅と義父母へのおみやげ、妻の勤務先のおみやげと、大量に買い込み、私はこの「ちんすこうアイス」をいただいた。
繁華街や空港のお土産物店で買うよりも、こういう直営店で買うほうが100倍いい。
そして昨日おいしかった沖縄そばにまた挑戦。
でもこれは臭いとスープがダメで、半分も食べられなかった.....
「ラーメンと思うからダメなので、変わったうどんだと思えばいい」
と妻は言うが、いやいや全然違う食べ物でしょ。
どこへ旅行してもホテルで食べる朝食バイキングが、一番おいしい。
繁華街の屋台などでプラスチックのコップやカップに入った料理を見ただけで、食欲が失せてしまう。
変なところが潔癖症みたいだが、エジプトでもアフリカでも変わらなかった。
「沖縄料理を何も食べられなくても、これで大丈夫」
とホッとする。
(でもラリー中の食事は、何を食べても美味しく感じるのだが)
翌日曜は最終日。
娘は
「すなはまでおしろ、つくりたい」
というので、朝食を食べてビーチに出ようとしたら、雨が降ってきた。
4日間の天気予報は雨だったが、毎日くもりでやり過ごしてきた。
でも最終日にいよいよ雨になってしまった。
雨でも行きたいという娘をなだめたが、昼12時20分発の飛行機まで、だいぶ時間がある。
妻が行きたいと言っていた首里城は、空港へ向かう途中なので、思い切って行ってみた。
9時半では首里城の駐車場は満車で、長蛇の列ができていた。
少しうろうろすると時間貸し駐車場が、一台だけ空いていた。
急いでお城のある公園に行き、ダッシュで見学
琉球王朝は中国に貢物を献上していたというし、王の名前もみな日本名ではない。
なによりこのきらびやかな色彩は、どう見ても日本の城とは大違い。
本当は中国領だったんじゃないかと、今さらながら疑ってしまう。
食事もこれだけ口に合わないのは、日本ではないから?
現地の人の顔もかなりエキゾチックだし.......
なんて考えたらキリがない。
そうこうしているうちに11時過ぎ。
空港には12時には着かないとならないし、レンタカーにガソリンを入れて返さないとならないので、急いで出発。
と、空港への道が大渋滞中。
迂回路も分からないので、じっと待つうちにどんどん時間は過ぎる。
ガソリンを入れている時間はなさそうなので、レンタカーの会社に電話して清算できるか聞くと、可能との返事。
空港まで送迎してくれるレンタカー会社のバスも、時間通りに出発するかわからないので、タクシーも手配してもらう。
念のため全日空のカウンターに電話するが、さすがに30分まではキャンセルはできないそう。
それでも15分ほど出発が遅れるとのことで、ちょっとホッとする。
清算しタクシーに乗ったが、空港手前の道が工事で車線規制していて、それが渋滞の原因らしい。
これが年度末渋滞というやつか。
予算を消化するために不要な工事をやっているのだろうが、観光客がたくさん来る週末はやめてもらいたい。
なんとか空港に着いたときは12時15分。
35分出発なので、かなり余裕ができた。
娘も両親が慌てているのが分かったのか、間に合ってホッとしていた。
飛行機に乗ったとたん
私のひざでまた寝てしまった。
楽しみにしていたスチュワーデスさんが働くところを、見られずじまいだった。
帰宅したが夫婦ともグッタリ(娘は充電完了だが)。
夕食を作る気にもならず、近所の焼肉屋へ。
やっぱり焼肉は牛が美味い。
安心して何でも食べられる東京が、一番いいなとつくづく感じた、沖縄旅行だった。