脳梗塞で5年前から施設に入所中の母親が肺炎になり、先月から市内の病院に入院していた。
89歳と高齢なのでしばらくICUで様子を見ていたが、熱は下がったが「肺に膿(うみ)」がたまり、「胃ろう」も逆流して受け付けない。
施設に入所の際「延命治療はしない」旨、姉と相談してサインしていたので、点滴だけで最期を迎える「終末医療」をすることになった。
たぶん生きている母に会うのは、これが最後だろう。
あいにく妻は仕事が休めないので、娘と二人で長野へ帰郷した。
土曜夜の関越道「三芳」SAで晩ごはん。
娘はお決まりのラーメン。
私は「三芳とんこつラーメン」にしたが、とんこつとはほど遠い味だった。
キミはラーメンさえあればハッピーなのね
自転車を積んできたので、朝イチで墓参りへ
実家からずっと登りなので、うしろに娘を乗せてちょうどいいトレーニング。
「もうすぐそちらに行きます」と報告
5年前に母が脳梗塞で倒れた一週間後、心筋こうそくで父が急死した。
結婚して60年、けっして仲が良かったわけではないが、どこへ行くにも一緒だった二人。
なので父が亡くなったことを母に話したら、ショックで死んでしまうだろうと、
半身まひで母がしゃべれないことをいいことに、ずっと内緒にしていた。
これでやっと会えるね。
母には申し訳ないが、すこしホッとした。
山の上のお墓からいつもの動物園へ
さすがに晩秋の長野は寒いので、朝9時から来ている物好きな客は、ほとんどいない。
うさぎもさわり放題
アマゾン生まれのカピパラも、寒そうに体を寄せ合っている。
臥竜公園名物の「黒いおでん」を食べる。
そして11時から面会時間の病院で、姉と待ち合わせ
点滴だけでもう3週間にしては、やつれてはいるが血色がいい。
前回来たときは呼び掛けてもずっと眠ったままだったが、今回は目を開けてくれた。
さすがに
「おばあちゃんと会うのは今日が最期だよ」
とは言えず、先日の小学校の音楽会で歌った「ふるさと」を、おばあちゃんの耳元で歌ってあげた。
「ふるさと」作者の「高野辰之」は、中野市の出身。
そういえば母の実家がある山ノ内町の戸狩地区は、トトロに描かれた風景そのままだった。
市民病院は「治療をするところ」なので、何も治療行為をしない患者は置いておけない決まり。
なので小布施にある終末医療専門の病院に、水曜に転院した。
父の死に目にも会えなかったし、つくづく親不孝者だと思う。
そしてお昼もラーメン
私が子供のころは「しょうゆ(というかとんこつっぽい)ラーメン」しかなかったが、今は塩やみそラーメンもある。
ただ何度も来れないので塩やみそを冒険する気になれず、昔から食べなれたしょうゆラーメンを頼んでしまう。
まだ昼なのにガランと人気のないショッピングセンター
40年前は夕方になると買い物客で、ごった返していたのがウソのよう。
この喫茶店もむかしからあり、高校生が座ると灰皿が置かれる、不思議な店だった。
娘が行きたがっていた小布施の浄光寺にある、スラックライン
だれでも無料で好きなだけ体験でき、そこにいる常連さんが親切に教えてくれる。
東京にもスラックラインができる施設は増えたらしいが、それなりのお金を払わないと体験できないのに比べ、ほんとうにおおらか、というか欲がない。
ほんとうはこういう使い方ではないらしいが、二人でけっこう楽しんでいた。
「長野=温泉」の娘だが、私と一緒ではもう男湯に入れない。
なので姉に付き合ってもらい、小布施の「あけびの湯」へ。
前回来たとき七味温泉の露天風呂に入ったら、帰京してしばらく家のなかが硫黄くさかった。
なので妻から
「しっかりお湯で流してきてね」
と念を押されたので、一緒に入る姉にお願いした。
そして夕飯は中学高校と同級生の、タナカ君のお宅でごちそうに。
奥さんは私と小学校の同級生で、高校時代タナカ君が告白するのを手伝った。
家業の酒屋を継いだタナカ君だが、奥さんの親はサラリーマンなので、商売人の家へ娘を嫁に出すことに反対された。
私の母が奥さんのお母さんと同じ会社で働いていて、母から
「タナカ君はいい子だから結婚しても大丈夫」
とお母さんを口説いてくれた。
フライドチキンやポテト、寿司にピザ、コーラなど、子どもの好きなもの用意してもらったが、娘は寿司もコーラも苦手。
実家に戻り歯を磨いて就寝。
古くて広い田舎の家は、しんと冷え込んで寒い。