R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

さようなら


1月28日月曜に母親が亡くなり、葬儀のため長野に帰省した。

5年前に脳こうそくで倒れた母だが、その翌週に心筋こうそくで父が急死。
意識はあるが寝たきりになった母は介護施設に入所したが、父が亡くなったことを言うとショックで、母も死んでしまうと思い、麻痺してしゃべれないことを幸いに、5年間ずっと内緒にしていた。

とはいえ母も
「お父さんはなんで来ないのか?」
と不思議に思ったはず。

見舞いに行くと私の手を握り、じっと見つめられるのが
「お父さんはどうした?」
と言われているようで本当につらかった。

11月に肺炎にかかり、市内の病院に搬送されたが、89歳という高齢もあり、延命
治療はせず、終末医療専門の病院に転院。
「年は越せないだろう」
という医師の診断をくつがえし、点滴だけで2か月半も生き永らえた。

地元の姉夫婦が去年のうちに、葬儀会社の手配を済ませていたので、亡くなってすぐ病院から自宅へ、母の遺体を運んでもらっていた。

私は火曜日から仕事を休み帰省。
仕事を休めない妻は水曜朝、新幹線で来ることにして、娘と二人クルマで帰った。

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この日は夕方5時から通夜。
2時に葬儀場へ遺体を運ぶので、それまでに帰りたかったが、関越自動車道は事故渋滞で間に合いそうにない。

ちょうど昼なので途中の上里SAでランチ。

前回三好SAのラーメンが不味かったが、娘はとにかくラーメン。
ホールは昼で混んでいたので、レストランに入るとこちらはガラガラ。
しょうゆラーメンを食べたらこちらは美味しかった。

そして2時半に実家に到着
いつ呼ばれてもいいようにスタッドレスに換えていたが、ここまで道路に雪は無かった。
実家の庭にはおととい降ったという雪が残っていて、今シーズン初めて雪を見た娘は大興奮。
甥っ子のカズちゃんを無理やり誘って、雪合戦中

長男で神奈川に住むタケシ君は、つい先週、息子(第一子)が生まれたばかり。

姉は初孫の誕生と母の葬儀の準備、そして義兄の手術と、年末年始は心配の種が尽きなかった。

母ももう少し頑張れば、ひ孫が見られたのに残念。

でももう天国でお父さんには会えたかな。

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そして実家から歩いて5分の斎場へ
ここは5年前、父の葬儀でもお世話になった。
いつのまにか隣の敷地に、家族葬専用のホールができていて、今回はこちら。

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身内だけの家族葬なので、10人ちょっとのこじんまりした通夜。

通夜のあとはお斎(おとき)

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姉夫婦が住むのは志賀高原のふもとで、昨日も大雪で車庫にクルマが入れられない。
ここは和室に泊ることができるそうで、ふとんも風呂もあり、姉夫婦と甥っ子二人は、今夜は泊まるという。

甥っ子が大好きな娘は
「いっしょに泊りたい~」
と駄々をこねたが、ふとんが4組しかないのであきらめた。

雪は無くても長野の夜は寒い。
父は3月の寒い夜、寝室からトイレへ行った帰りに心筋梗塞になり、そのままベッドで亡くなっていたが、ガスヒーターをガンガン点けた茶の間から、一歩廊下に出るだけで、まるで「ハワイから南極」、
ヒートショックにならないか心配になるほど、本当に寒い。

翌水曜日は朝11時から納棺
地元の駅に到着するママを迎えに行き、納棺の儀が始まった。

親戚一同で棺に花や、母が生前好きだったものを入れる。

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そして火葬して葬式を済ませ、またお斎が始まった。

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いとこのおじさんは今年91歳。
「つぎはオレの番だから、よろしくな」
って言うが、まだまだ大丈夫そう。

私は地元にはいないが長男なので、いちおう喪主。
5年前の父のときと同じく、通夜と葬式で喪主のあいさつ。

18で田舎を離れ約40年。
親には心配ばかりかけて、何一つ親孝行はできなかったと話すと、菩提寺の住職が
「さいごに孫を見せられたんだから、それが一番の親孝行だよ」
と言ってもらったが.....。

でも私と甥っ子のタケシ君以外は、地元で親と一緒に暮らす人ばかり。

長男のタケシ君には
「若いうちなら仕事を辞めて、田舎に戻ってもなんとかなるぞ」
と言い続けてきたが、
「田舎には自分のやりたい仕事がない」
と大学の工学部を卒業後、神奈川の自動車部品の設計会社に就職、
3年前に地元の女性と結婚し、今は奥さんの実家の近くで暮らしている。

いずれは実家の近くに家を買い、「あちら側」の人間になるのだろうが、歳をとって望郷の念に駆られても、もう戻れない。

次男は地元の青果卸の会社に就職したが、転勤が多いうえに市場で働くので朝が早い。
「もし長野の会社に戻れても、実家だと朝が間に合わない」
らしい。

義兄は二人の息子に
「家のことは気にせずに、お前たちがやりたいことをやれ」
と言い続けてきたので、いまさら帰ってこいとは言えないらしいが、この10年でがんになったり、去年も気管支に腫瘍が見つかって、切除したら声が出なくなり、大学病院で再手術をした。

「このまま声が出なかったら.......」
と姉曰く、かなり心細い日々を送っていたとか。

私は姉がいてくれたおかげで、両親の面倒はずっと見てもらえたが、彼らはどうか?
もらった奥さんが実家と折り合いが悪ければ、自然と足は遠のいてしまうもの。

去年、姉から
「お母さんが亡くなったら、ふたりで実家に引っ越そうと思うがいいか?」
と聞かれた。
義兄の実家は志賀高原のふもとで、お世辞にも新しいと言えない、築60年のボロ家。
冬は寒いうえに大雪で、毎日の雪かきが大変だと、痛めた腰に湿布を貼りながら、義兄がこぼしていた。

姉夫婦が住んでくれれば、実家は無くならないので快諾したが、姉の家になれば妻は遠慮して、今までのように気軽に帰れなくなる。

とはいえ両親の面倒をずっと見てくれた姉夫婦に、40年前に家を捨てた私は、なにも言う権利はない。

甥っ子たちもあと10年後には、同じ問題が起きるはず。
私の実家なら次男がもし長野勤務になっても、朝の早い市場に間に合うらしいので、甥っ子が継いでくれるのもいいかもしれない
(ただ33歳の次男には、なかなか彼女ができないのだが)

今夜会は家族葬でだれにも知らせていなかったが、母の死を聞いた同級生が友達に連絡して、数人が葬儀に来てくれた。

仕事で来れなかったMくんも、出勤前の8時に寄ってくれた。

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航空自衛隊でヘリの整備をしていた彼は、長野か松本の勤務を希望していたが、なかなか空きが出なかった。
最後の勤務地の北海道で本格的にスキーを覚え、指導員の資格を取って除隊。
夏はバイトをしながら、冬は志賀高原でインストラクターをやっていた。
結婚することになり定職に着こうと、地元の工場に勤務。
もともと頭が良かったので、中途採用ながら順調に出世して、双子の娘のうちのひとりが、19歳でデキ婚、今ではふたりの孫がいるおじいちゃんになった。

大きな変化はないが、穏やかな彼の暮らしを見ていると、うらやましくなる。

最後の日は菩提寺へ挨拶。

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父に続いて母も永代供養をお願いした。

この日は午後から雪の予報だったが、昼前にパラパラ降ってきた。
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そのあとは墓参り。
母はもう父や祖母、ご先祖様に会えただろうか。

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娘が3歳のときおじいちゃんが亡くなり、母も寝たきりになったので、娘の記憶には元気な両親の姿はないらしい。

それでも最後の最後に孫を見せてあげられたことが、唯一の親孝行だったと信じたい。