SSERのホームページに「クローズアップなんだい?」という変わった名前のブログがある。
これは元新聞社記者でパリダカ取材歴20数年の「パリダカの生き字引」、中島祥和さんのブログ。
http://www.sser.org/closeup/index.htm
誰の目から見てもおかしくなってしまった現代の世相を、長年の海外取材で培ってきた中島さんの厳しくも優しい目で、言いたい放題、切り捨て御免の小気味いい文体で書かれている。
昔、どこにでもいた口うるさいカミナリオヤジみたいな感じかな。
もうひとつ、中島さんの本家本元のホームページが「じじばばネット」。
http://www18.ocn.ne.jp/~jijibaba/
こちらは中島さんご夫妻が世界中を旅して回った記録や、内側から見たラリーやアフリカなど貧困国の現状が生々しく描かれていて、読み応えがある。
中島さんと初めてお会いしたのは98年のパリダカ20回大会。
プレスとして山田シューセイさんのプレスカーで参加したけど、直前のレースで足を骨折してギプスに松葉杖で行った私は、主催者オリオールの判断で危険地帯はクルマでなく飛行機で移動することを条件に、参加を許された
(この「妥協案」までひと悶着あったけど、長いのでいずれまた)。
シューセイさんから中島さんを紹介され、右も左も分からないキャンプ地で、彼のあとを金魚のフンのように松葉杖で必死に追いかけた。
アフリカに入って「山田シューセイ行方不明事件」が起き(これもいずれまた)、いつまで待ってもキャンプに帰ってこない彼を待つ私を、不憫に思った中島さんが、村の市場や郊外のレストランなどへ連れて行ってくれた。
とにかく言いたい放題の暴言おやじで、プレスに対する主催者側の対応が悪いと「お前ら誰のおかげでラリーやってられると思ってんだ!三菱ワークス撤退させるぞ!!」とオリオールらに食ってかかっていた....。
「このおっさん、えらい大ボラ吹くなー」と思ったけど、実は中島さん「三菱の専属スポークスマン」としてかなりの影響力あったみたいで、翌日から本当に待遇が変わっていた。
昼食はプレスもスタッフも選手と同じランチパックだけど、お菓子や缶詰ばかりで飽きてしまう。
そんなとき中島さんが「おいビッコ(私のこと)、メシ食いに行くぞ!」ってタクシーで町まで連れて行ってくれたり、観光案内をしてくれたりと本当にお世話になった。
実はこのパリダカに行くまで、オリオールはおろかメオーニもペテランセルも、シュレッサーも知らなかったが、欧米人は身障者に優しいので、毎日、有名選手たちが私の食事を乗せたプレートを、テーブルまで運んでくれたりもした。
肝心のサハラ砂漠はほとんど走ることはできなかったけれど、毎日ボロボロになって帰ってくる選手たちやマシンを見て、自分が「サハラ探検隊」を読んで想像していた、冒険的なパリダカと違って、今は完全なスプリントレースになっていることを実感...。以来パリダカは応援する側に変わった。
写真上から
・20回記念大会なのでスタートはベルサイユ宮殿、壮観。
・今日のディナーは前菜がポロネギのスープ、テリーヌにボローニャ風パスタ、肉にデザート、
エスプレッソは飲み放題と、砂漠の真ん中に「パリ」が出現したよう。buon appetito!
・GS伝説登場の横川さん、この年は長谷見さんのナビ。お二人とも若っ!
砂丘で一晩夜明かししてヘリで御帰還。このあとカナリア諸島経由で帰国。
・2輪の博田君、最終日ダカールの海岸で。これからビクトリーラン
セネガル在住の海外青年協力隊の方たちからおにぎりの差し入れに ホッと一息。いい顔してる。
18日間、非力なXR400Rで毎日「淡々と」走り切って総合20位(!)クラス2位(!!)
途中でエンジンが壊れなかったらもっと上位だったかな。
今も日本のエンデューロのトップランカーの彼でさえ、毎日「いっぱいいっぱい」の様子を見て
「これは俺にはできないなぁ...」とパリダカをあきらめた。
彼は「チームSSER」の一員で、そういえば山田さんも黄色いランクルで出てたなぁ。
モロッコでリタイアしちゃったけど...。
当時スポンサーだった工具メーカーKTCさんのホームページが残っていた。
http://www.kyototool.co.jp/news/sser_2.htm