録画しておいたBSプレミアム「男の料理」を観た。
篠塚氏はこのとき41歳。
わ、若い。
彼が作ったのはスパゲッティ・アラビアータ
アフリカで食べた味が忘れられないとか。
さすが男の料理
手際よくホールトマトやニンニクを混ぜてソースを作り、パスタにからめていく。
そして篠塚氏の友人に食べてもらうことになり
「・・・!?!」
呑んでいたビールを思わず吹き出してしまった。
じ~じ このとき49歳
本当に若くてビックリしたが、声は変わっていない。
私がじ~じと知り合ったのは、2001年のTBIだった。
このときじ~じは還暦、私は39歳か。
「ゴマしおアタマ」のじ~じは、当時の私から見たらおじいちゃんだったが、
考えてみればあと7年で、私も還暦。
時の経つのは早いものだと、本当に驚く。
妻と娘に
「この人だれかわかる?」
と聞くと
「だ~れ?」って
(「だれこのスケベったらしい人」とも言っていた...........)
「菅原さんだよ」って言っても、2人ともなかなか理解できない。
妻がじ~じと出会ったのは6年前、娘がもの心ついたのは2年前なので、無理もないか。
同席していたのは中村さん。
NHKなので「映像会社勤務」としか書かれていないが、ラリーなどの映像を配信する「東京映像社」だったか。
当時のカメラは当然フィルム。
シューセイさんが撮影したフィルムを取りに来た中村さんに(?)、私がキャンプで手渡していたような記憶がある。
当時パソコンは無かったので、中村さんはそれをアフリカのどこかで現像して、日本に送っていたのかもしれない。
FテレビでプレスライダーだったYさんは30年前、11時過ぎのプロ野球ニュースに野球中継のビデオテープを届けるため、ナイターが終わった横浜球場から当時テレビ局があった曙橋まで、毎晩バイクで首都高をかっ飛ばしていた。
編集の時間を考えれば与えられた時間は30分
どんな大渋滞のときでも、延長戦で試合が延びたときも、絶対に間に合うようビデオテープを届けなければならない。
それを考えたら今は世界中どこでもインターネットでつながっているし、写真やネガでなくデータで送れ隔世の感があるが、まともに電話も通じないアフリカで、日本の生放送に間に合わせる苦労も、想像するに難くない。
その後、中村さんは地方のお寺の娘さんと結婚し、僧侶になっているとなにかの雑誌で読んだ(袈裟を着てお寺をバックに、GSと一緒に合掌した写真を見たような)
私も当時こんな髪型とヒゲを生やして、ピンクのニットセーターを着ていた.........
篠塚さんがもう一品、クスクスを使った料理も作っていた。
アフリカでクスクスはもっともポピュラーな食事。
馴れるとやみつきになるほど美味い。
主催者から提供されるランチパックも紹介されていた。
1989年といえば世はバブル真っ盛りで、パリダカも全盛期だった(らしい)。
私は毎晩六本木や銀座、赤坂の「東京砂漠」で、スタックを繰り返していて、
アナウンサーが手にしているのは「パスティス」という、フランスのリキュール。
これもパリダカのキャンプでフランス人スタッフやワークスメカらと、毎日呑んだ思い出の酒。
骨折&松葉つえでプレスカーに乗れなかった私は、毎朝スタートする選手たちを見送ったあと、オリオールらTSOスタッフらと飛行機で、次のキャンプ地へ向かった
いつも飛行機の隣りの席はオリオール、
そしてこのパスティス
次のキャンプ地に着くとワークスメカらはまだ昼前だというのに、宴会を始める。
その時に飲むのがこのパスティス。
私もヒマだったので毎回ご相伴にあずかっていた。
パスティスを水で割ると白く濁る。
ラリーのあいだ毎日呑んでいたら、かなりやみつきになったその独特の味。
パスティス、ひさびさに飲みたくなった。
それにしてもこの番組、ビールは飲むわ、パスティスは飲むわで、NHKでなかったらもっとウラ話が聞けたはず。
夜中の放送だったので、ひょっとしたら「あんな話」や「こんな話」も聴けるんじゃないかと思ったが、考えてみれば「今日の料理」って夕方の放送なので、じ~じも篠塚さんもかなり「遠慮している」印象だったよーな.............。