R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

吉村パパもso long

フラットのおやっさんが亡くなってひと月、
あとを追うように9月24日、おやっさんの盟友、吉村パパが亡くなった。
享年71歳。
 
吉村さんはそのむかし、タイムトンネルやバトルオブツインを主催していた、フリーランスプランニングのボス。
筑波サーキットで大会挨拶をする、ムーミンパパのような風体の氏を、見かけた人も多いはず。
 
日本中の道路がまだ未舗装だった十代のころ、同級生のタチバナさんとバイクで走り回り、二人でBS(ブリヂストン)のテストライダーに。
 
「日本でも欧米のような本物の、モーターサイクルイベントをやりたい」
イベント運営会社「フリーランス」を立ち上げて以来、日本にはなかった新しいバイクイベントを、つぎつぎ手がけてきた。
30年前といえば片岡義男のバイク小説がブームになり、「汚れた英雄」も映画化された。
 
「バイクに乗らなきゃオトコじゃない」くらいに、男の子はみんなバイクに乗っていた、素晴らしい時代。
「バトル・・・」や「タイムトンネル」、「テイスト・オブ・フリーランス」も大盛況だった。
 
マチレスやBSA,、ロイヤルエンフィールドなどなど、
海外の雑誌でしか見ることのできなかった旧車が、一堂に会するさまは旧車に興味がなくても圧巻だった。
 
この頃の私はまだ吉村パパを知るべくもなく、一般観客の一人だったが、レースに出る友人の応援や、自分もレーサーを買ってサーキットに通っていた。
 
そんな夢のような時間も「バイク3無い運動」やバブル崩壊を境に、バイク人口は激減。
イベントもつぎつぎと廃止に追い込まれた。
フリーランスも不遇の日が続いたが、そこは生来の楽天家で道楽おやじの吉村パパ。
ガレージにはマニア垂涎のビンテージバイクが、数十台あったという。
(ニコバッカーのビーエム、欲しかった)
 
私が吉村さんに初めて会ったのは、15年くらい前の富士山キャンプ(と思う)
オフロード乗り始めの頃で、XR600を買ったばかりだった(と思う)
たしかS師匠に「富士でキャンプしよう」と誘われて、吉村家とその仲間たち、総勢十数人の吉村ファミリーにお会いした(と思う)
 
その後もファミリーのツーリングに何度か参加したが、一番記憶に残っているのは菅原じ~じの盟友で、パリダカおじさん横川さんと吉村パパの、漫才のような掛け合いだろう。
 
横川さんとも旧知の仲の吉村パパ。
 
80GSで林道を走っていた横川さんが、景色のいいところでおもむろに止まり、「ここにしますか」と声をかける。
横川さんはパニアからワインを出し、パパもバッグからハムやチーズを取り出し、ブランケットを敷いた上で青空の下、二人の宴会が始まった。
 
「ツーリングはひたすら走るもの」と思っていた私は、楽しそうな二人を見てカルチャーショックを受けたのを、今でも鮮明に思い出す。
 
 
3人の息子の長男が、知る人ぞ知るGSマフィアの片棒、Y村くん
次男のしゅんちゃんは堅気のサラリーマンになったが、唯一いまだにエンデューロレースを続けているという。
三男のダイスケは最後まで吉村さんとフリーランスを続けていたが、
「もういちどタイムトンネルをやりたい」という願いもむなしく、長い闘病生活の末、帰らぬ人となった。
 
葬儀、告別式は10月2、3日だが、あいにくその日は長野の姉の義母の一周忌で、帰省しなければならない。
Y村くんとTLD仲間で津田山ブラザースのA師匠は、地元で代々続く葬儀屋さん。
今回の葬儀はA師匠が取り仕切るので、2日までお店にご遺体が安置されている。
今日ひとあし先にお別れに行ってきた。
 
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柩の上には吉村さんがいつも身につけていた、帽子とベルト、バッグが。
 
長男のY村くん曰く「きっとフラットのおやっさんに呼ばれちゃったんでしょうね」って。
 
「あっち」に行っても大好きなバイクに乗れるよう、クロムウェルのヘルメットとグローブも、
入れたほうがいいんじゃない? Y村くん。