R1250GS カフェしなの

R1250GS、事故で廃車から買い替えました

TPPよりPPK

18日に長野の父が急死した。
心筋梗塞だったが実は亡くなる前日の土日、家族で帰省したばかりだった。
 
3月9日、実家のとなりの62歳のご主人が、こちらも心筋梗塞で急死した。
この家には90歳のお母さんがまだ健在で、息子の突然の死を嘆いていたという。
 
葬儀に出た私の両親もショックだったようで、葬儀の翌日に母が脳こうそくで倒れ、緊急入院。
その見舞いで帰省していた。
 
発見が早かったので命に別条はないそうだが、まだ集中治療室でしゃべることができず、右半身にマヒが残るかもしれないとのこと。
去年、二人揃って定年になった姉夫婦が、毎日病院に行ったり父の面倒を見てくれていて、
「すぐ来なくて大丈夫だから、週末にみんなでおいで」との言葉に甘えて、週末に家族で帰省した。
 
金曜夜10時に着いたのに、父は起きて待っていてくれた。
娘も眠い目をこすりながら、「おじいちゃん、ただいま~」ってひざに抱きついて、父も目を細めていた。
 
以前大病してからはバイクもクルマも取り上げられてしまい、週3回の透析以外はほとんど家にいたが、それでも元気で一緒に母の見舞いに行った。
 
どんな名医やクスリより、孫を見せるのがなによりの特効薬と思ったが、集中治療室は小さい子供は入れないとのこと。
 
しかたないので携帯で撮影した娘の動画をベッドの母に見せると、しゃべれないが涙を流して喜んでくれた。
 
医療に従事する妻曰く、「おかあさん、これからリハビリだけど、もうあの家には戻れないかもね」って。
我が家は田舎の日本家屋で、父が退院したときあちこちに手すりを付けたが、それでも以前から足腰が弱っていた母が暮らすのは難しいかもしれない。
 
いつか来るだろう漠然と恐れていた事態が、もう目の前に迫っている。
 
病院の帰りバーミヤンで食事。
帰宅しても昼寝しそうにない娘を連れて、近所の臥竜公園に歩いていく。
 
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家の前から雪をかぶった北アルプスが見える。
こんなにきれいに見えるのは、久しぶりかもしれない。
 
若いころ周りを山に囲まれた、こんな田舎がいやで上京して30年以上。
今ではこんな自然豊かな田舎に暮らす人を、本当にうらやましく思う。
 
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ここは池のほとりに桜が100本以上あって、日本桜百景にも入るほど。
開花する4月中旬以降は、地元や観光客でにぎやかになる。
 
子供のころ後ろの山で、ソリやスキーをして遊んだのが懐かしい。
 
本当は体力をつけるため、リハビリで歩かなければならない父だが、面倒くさがって歩かない。
それを知ってか知らずか
「春になったらおじいちゃんの手をひいて、さくら見にくる~」って。
 
お墓参りにも行った。
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「わたしが持つの~」って、ヨチヨチ歩きの後ろ姿がかわいい。
前回、父と来たときは、娘はまだここがどこかもわかっていなかった。
 
夜、妻と娘が寝てから、父とテレビを見ながらビールを飲んだ。
地元のケーブルテレビに加入しているので、時代劇やプロレスがいつでも見られるのだが、リモコンの操作も覚えるのが面倒らしく、地上波しか見ていない。
 
孫の顔を見せたいので、去年スカイプ対応テレビにしたが、耳が遠くなった母に毎回電話で、リモコンの説明をするのがかわいそうになり、やめてしまった。
 
地上波がつまらないのでCS放送のボタンを操作していたら、プロレスをやっていた。
父も祖母もプロレスが大好きで、40年前の金曜夜8時はテレビの前で、馬場や猪木に声援を送っていた。
 
私も見るのは久しぶりだが、昔のように四の字固めやドロップキックで決着がつくことはなく、○○スープレックスやブレンバスターなどの大技の連続に、父も目を輝かせて見入っていた。
 
「これを見るにはどのボタンを押ぜばいいんだ?」
珍しく父の方から聞いてきたので、これ(プロレス)と時代劇チャンネルがあれば、少しは楽しみが増えるのかなと、期待した.....
 
午後になると高速が渋滞するので、11時に実家を出た。
父に「何かあったらすぐ連絡して」と言ったが、
父は娘とのおしゃべりに夢中で、私の話しは聞いていない。
 
帰京した翌日の月曜朝、姉から電話があった。
「ひょっとして母親の身になにか?」と思ったが、
「お父さんが死んじゃった」って。
 
月曜は透析の日で、家までいつも同じ運転手さんのタクシーが、迎えにくる。
いつもは家の前で待っている父がこの日はおらず、呼び鈴を慣らしても返事がない。
運転手さんが姉に電話したが、姉の家からクルマで30分かかるので、お向かいのおじさんに見に行ってもらった。
玄関のカギは閉まっていたが、裏の勝手口が開いていて、おじさんが家に入ると寝室のベッドの上で、父がうつぶせに倒れていたそうだ。
 
119番を呼んでもらったが来たのは警察と近所のお医者さんで、死亡時刻は朝5時か6時ごろだろうとのこと。
夜中に何度もトイレに行くので、たぶん用を足して布団に入ろうとしたところで、倒れたんだろう。
 
3月は寒暖の差が激しいので、亡くなる人が多いという。
実家も暖房の効いた部屋と廊下や浴室の温度差が大きく、姉とも心配をしていた。
 
なにはともあれトイレや廊下で倒れていなかったのが、せめてもの救いか。
 
姉の電話を切ったあと、やらなければならない用事を済ませていたら、昼過ぎになってしまった。
妻も仕事が休めないので、とりあえず私一人で帰郷することに。
あわてて事故でも起こしてはまずいので、気持ちを落ち着かせながら高速で実家に急ぐ。
 
午後4時ごろ実家に着くと、父は顔に白い布をかけられて、仏間に寝かされていた。
布を取って顔に触れるとおどろくほど冷たかった。
 
「お父さんは死なないんじゃないか?」と思うほど、5年前まではエネルギッシュでパワフルな父だったので、
「ひょっとして生き返ってるかも?」なんて、ひそかに期待していたが、本当に死んでしまった。
 
すでに葬儀屋さんも来ていて、感傷にひたる間もなく通夜や葬儀の日程を決めていく。
長男で喪主なのに東京に住む私と、毎日来て両親の面倒は見るけれど、ほとんど近所づきあいをしていない姉は、母が入院中のため父の友人や親せきなど、誰を呼んだらいいのか分からない。
 
菩提寺の住職に電話すると、「つい先週、となりの家の葬式をやったばかりなのに......」と、絶句されていた。
 
父は85歳、母は83歳で、兄弟や親戚、友人たちは、ほとんどが亡くなったか入院中で、
なんとか通夜の連絡を終わったときは、もう夜10時を回っていた。
 
姉と義兄と12時過ぎまでいろいろと話す。
 
亡くなる前日に会えたのが、せめてもの救いだと言われたが、もう一日帰京を延ばせばよかったかもと、後悔は尽きない。
 
姉夫婦が帰ったあと、父のとなりに布団を敷いて、古いアルバムを見ながら父と酒を飲んだ。
 
父と母の若いころや、私と姉が子供のころ。
なつかしい幸せそうな写真を見ていたら、さっき姉に聞いた話を思い出した。
 
「私が産まれたときはお父さん、ショックで茶碗を落としたって。
あんたが産まれたときはうれしくて、あわてて病院に行ったら、セーター裏返して着てたって」
 
跡取りが産まれたことがそんなにうれしかったのか。
それなのに子供のころから好き勝手やって、さんざん迷惑かけて。
 
「東京で会社をやってえらいな~」と、田舎の人は思うようだが、
ちょっと小銭を稼いで、ちょっといい家に住んで、ちょっといいクルマに乗っても、
さんざん世話になった親の面倒もみれない、親不孝者の自分が本当に情けなく、涙が止まらなかった。
 
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「お父さん、夢か枕元に立つかな」と思ったが、結局現れず。
 
翌日は自宅で通夜。
昔はこれが当たり前だったが、今は洋風な家が増えたり家が小さいので、葬祭場の葬儀が増えてきたと、葬儀屋さんが言っていた。
そういえば東京で自宅での通夜に呼ばれたことはない。
ある意味ぜいたくなことなんだろう。
何十年ぶりに会う親戚やいとこもみんな、父の突然の死に驚いていた。
 
妻と娘も東京の両親と、クルマで駆けつけてくれた。
娘は正月明けにも妻のひいばあちゃんの葬儀に出ているので、人が死ぬということはなんとなく分かるらしい。
「おじいちゃん、どうしてしんじゃったの?」って、冷たくなった父の顔をなぜながら言う無邪気なひと言が、皆の涙を誘っていた。
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長男が厚木、二男が甲府で働く姉の息子たちも、来てくれた。
彼らは帰郷すると自分の実家に帰るより、まず私の両親に会いに来てくれるほど、両親にかわいがってもらっていた。
 
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本当にたくさんの人が弔問に来てくださった。
自宅での通夜はたしかにぜいたくだが、ほとんどが高齢で皆さん足が悪い。
それなのに正座での焼香や読経は、本当に申し訳ないことだと思った。
 
通夜が終わり、親戚だけで「お斎き(おとき)」の宴。
どうしても休みを取れなかった妻は、9時過ぎに娘を連れて、両親とクルマで帰京した。
 
「もうこんなときしか会えないからね」って、おじさんおばさんにしみじみ言われる。
「次に会うときはあたしは{あっち側}かもね」って。
 
この日は義兄だけ帰り、姉と甥っ子二人が父のとなりで寝た。
 
翌日は出棺と火葬、告別式
 
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生前、父が愛用していた帽子とシャツ、
人工肛門をつけていたので、「あっちに行って困るから」と、ストマも棺に入れた。
 
出棺する自宅の前では、近所の人がたくさん見送ってくれた。
核家族化とか近所付き合いがなくなったと言われるが、こちらのほうはまだ良い風習が残っているようだ。
 
火葬して近所の葬祭場で告別式。
 
定年退職してから25年。
会社時代の親しい人もほとんど亡くなっているので、礼状は150枚くらいでいいかと思っていたら、葬儀社の人が飛んできて、「新聞のおくやみ欄を見た人たちが続々来られて、もう無くなります」とのこと。
学生時代よく私の家に遊びに来て、父の世話になった同級生たちも、みんな来てくれた。
 
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無事葬儀も終わり、帰宅した父。
翌日も葬儀に来れなかった人たちが、何人か来てくれて、父との別れを惜しんでいた。
 
5年前、大腸破裂で緊急入院したとき、何度も生死の境をさまよって、医者から「覚悟して下さい」と言われたことを思えば、残りの5年はおまけの人生だったのか。
 
そのあいだに私は再婚し、孫も見せることが出来た。
 
葬儀の翌日、菩提寺に四十九日法要の打ち合わせに伺ったが、住職の母上は父と小学校の同級生。
今でも毎年同級会をやっていて、「50数回目の同級会」と毎回、新聞に取り上げられる。
 
最近の父の口ぐせは、「同級生がみんな死んじまって、男はおれ一人になっちまった」。
 
私の娘が産まれたとき、父はバイクでお寺にやってきて、「お姫さまが産まれたけど、女でもいいよな」って喜んでいたそうだ。
「昨日も孫を連れて来てくれた」って、私が帰省した翌日は、必ずお寺に報告していたって。
 
姉の話しといい、この母上の話しといい、今まで私の知らなかった話ばかりで、また泣けてきた。
 
「あと何度、親に孫を見せられるのか」
その思いで月イチで帰省していたが、父も喜んでくれたと思いたい。
 
入院中の母親は、父が亡くなったことをまだ知らない。
 
病院の医師と面談した姉から電話があり、「胃に穴を開ける{胃ろう}にしないと、転院できるリハビリ病院がない」と言われたそうだ。
脳の委縮も進んでいて、痴呆も始まっているらしいが、まだ目も耳も機能している。
もう少し症状が安定したら、姉と一緒に父のことを話さなかれば。
 
通夜のとき住職が、「人という字は互いを支え合っていて、片方が欠けたら倒れてしまう」と言われたが、
今年結婚58年目の両親は、本当に互いに支え合っていたんだろう。
 

「さくらがさいたらおじいちゃんの写真もって、公園につれていってあげるね」って。
 
孫を見せられたことがせめてもの親孝行だったと、信じたい。
 
 
タイトルの「PPK」とは「ピンピンコロリ」の略。
寝たきりになって周りに迷惑をかけるより、それまでピンピンしていたのがある日、コロッと亡くなるのがいいそうだ。
長野県は長寿日本一らしいが、県のモットーが「TPPよりPPK」らしい。
そういえば30年前に亡くなった祖母も、朝まで元気だったのが脳溢血で、コロッと亡くなった。
 
父もその血をひいていたのかもしれない(あっオレもか)。